お兄様と屑妹

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  宿屋(中略)編〜 つづき




 長い、サラサラとした髪が靡くほど早く、廊下を足早に進んでいく。
 走らないのは、一応己がそれなりの人間であるという自覚と、ここがそれなりの場所であるという認識からだった。

 それにこの先にいる相手に、見苦しい姿を見せるわけにはいかない。

 アッシュは、ぴたりと足を止めると、目の前にある扉を控えめに叩いた。
 微かではあるが、中から了承の声が聞こえる。


「失礼します母上」
「あら、アッシュ。お帰りなさい」


 ドアを開けると、窓辺に立ち中庭を見ていたシュザンヌがアッシュに向かってふわりと笑顔を浮かべた。
 約二週間ぶりにあった母親だが、夕焼けの橙色を受けて微笑む表情は柔らかく、体調は良いようだ。
 アッシュは、すっと頭を下げる。


「ただいま帰りました」
「元気そうで何よりだわ。折角来たのだし、お掛けになりなさいな」


 そうシュザンヌは、近くに置かれていた椅子を手で示すが、アッシュは首を横に振った。


「申し訳ありません。ご好意はありがたく受け取ります。ですがそれより」
「ルーク、ですか?」
「……はい」


 この部屋に入ったとたん、母親の立っている位置と、そしてカーテンの開け放たれ夕焼けの静かな光が入ってくる状況を眼にし、先程己が彼女の眼の先を通った事を確信していた。

 アッシュは久しぶりに家に帰ってきて、まず自分達の部屋に行ったのだ。
 だがそこに目当てのはずのルークはいなかった。
 大体出掛ける時は母のシュザンヌに報告するのが常だったので、もしそうだとしたら母親は知っているだろうとここまで来たのだ。

 アッシュの申し訳無さそうな顔を見て、シュザンヌがくすくすと苦笑する。


「ルークなら、ナタリア王女と出かけましたよ。お城に行っているのでは?」
「そうですか、ありがとうございます母上。すみませんが」
「ええ、わかっていますわ。ふふ。可愛らしい妹を持つのも大変ね」


 心配性の兄だと思われているのだろう、シュザンヌは笑顔を絶やさぬまま言った。

 ルークに共に家に帰ろうと言われ、それに流されるようにしてまたこの屋敷へと足を踏み入れたのはもう三ヵ月以上前の事だ。
 帰らない、と……二度と足を踏み入れはしないだろうと思っていたのだけれど、そう言うとルークが、俺とは一緒に居たくないんだ?と泣きそうになったものだから頷くしかなかった。

 本当に何年か振りに両親と食事を取った時には、かなり緊張したものだ。
 それでもルークが居てくれたお陰だろう、食事中に笑顔が絶える事は無く、場の雰囲気はとても良く。
 その日の夜は、ルークとベッドの中で夜が明けるまで、互いの過去を語り合った。

 それから数日後には忙しい身となってしまい、あまりこの屋敷へと帰ってきてはいない。
 時々は四人で食事するのだが、それも稀である。


 シュザンヌの言う通り最愛のルークともあまり会えなくて、悲しませていないだろうか、寂しがってはいないだろうかと心配だった。
 その反面、己自身もまたルークに会いたくて仕方が無い。
 両親に申し訳無いとは思うが、己はルーク優先なのだ。

 シュザンヌはアッシュの前に立つと、そっとアッシュの手を握った。
 己を見上げてくる、女になったルークと本当には血は繋がっていなくとも、確かに彼女の母でもあるのだと認める事の出来る、その顔立ちを見つめ返す。


「今日は、休んでいけるのかしら?」
「……いいえ、あと少ししたらダアトまで行かなければならないので」
「そう、ルークも寂しがるわね。早く会いに行ってあげなさい。私とはまた、お暇があった時にはお茶をしましょう。今は自分のしたい事を思うままにしなさい。……母は、貴方を見守っております」
「……感謝します」


 母親の暖かな言葉とその手に感じる優しさに、眼を伏せて噛み締める。
 頭をもう一度下げ、母の笑顔に見送られながら、アッシュは部屋から退室した。








 早々にルークの元へ行こうと、屋敷を出る。
 門を潜り抜け、ごくろうさまです、と言う白光騎士団の言葉に微かに頷きつつ、城へと眼を向けたその時だった。


「どうしたのだアッシュ。ルークはいなかったのか?」
「ヴァンか」


 やけに落ち着いた声に振り返れば、こちらへと歩いてくるヴァンがいた。

 一時期敵であった筈の男だが、ルークが女になってからはまた以前のような師弟関係に戻っていたし、ルークもそれでとても喜んでいた。

 しかし、良いなぁお兄様は、師匠と一緒に旅が出来て……と言われた時には、今までこれ程のものを感じた事があるだろうか、いや無い!という程の殺意を抱いたのは確かだ。
 そんなアッシュから射殺さんばかりの視線でもって睨まれて、ヴァンが少なからずたじろいだ事、そして落ち着きなさいと言いながらアッシュとルークに何時間にも渡って説教し始め、いつの間にやら過去の思い出話へと発展して行った事などの記憶も残っている。

 手に持っているものをこれから城にでも届けに行くのだろう。
 その視線に気付いたのか、ヴァンは持っていた封筒を掲げた。


「本来ならお前が持っていくものだったのだがな。ここに着いたとたん走っていってしまったものだがら、私が代わりに持ってきたのだが。お前、これから城へ行くのか」
「ああ、ナタリアの所にだ。ルークが遊びに行っているらしい」
「王女なら先程、下で見かけたが……ラルゴと、あとリグレットも一緒にいたな。まだ娘と二人きりで会うには戸惑いがあるのだろうな。しかし、ルークは見なかったぞ?」
「何!??」


 そんな話は聞いていないとばかりに、アッシュはヴァンの横をすり抜け昇降機へと走っていく。
 結局私が持って行くのか、と後ろでヴァンが言ったような気もしたが、それどころではなかった。


 ゆっくりと下りる昇降機に苛立ちを募らせ、下に着きドアが開いたとたん、また走り出す。
 ナタリアやリグレットはともかく、ラルゴの体格ならば遠くからでもわかる筈だ。
 そして多分血の繋がった我が子とひと時の休息を堪能しているのだろうから、そんなナタリアの行きそうな場所を念頭に置きながら広い街中を走る。

 ドンッと時折人と当たってしまう事もあったが、アッシュ自身それどころでは無いし、相手もまた振り返りその紅い靡く髪を見ては、怒鳴る事さえ出来ず。
 女性なんかはむしろ、黄色い声を上げるくらいだ。


 ――――いた。

 ルークに関する時だけ確実に運の良いアッシュは、丁度、カフェに入ろうとする三人を見つける。
 それにリグレットやラルゴは神託の盾の服装をしているのだから、見間違える筈も無く。


「ナタリア!」
「まぁ……アッシュ」
「俺の屑妹はどうした!」


 久しぶりの友人との再会にも関わらずルークの事を聞いたアッシュであるが、ナタリアも、すぐさま申し訳無さそうにぺこりと頭を下げた。
 きっとラルゴが訪ねた時点で、アッシュも帰ってきているとわかったのだろう。
 そんな彼女は、忍びの為か普段のドレスとは違った、多少大人しい服装をしていた。
 ちなみにさり気無くルークを自分のもの主張したアッシュに、リグレットやラルゴはそれぞれ肩を竦めたり笑ったりしたのだが、それすらもアッシュは見えていない。

 ナタリアは顔を上げると、目線だけを地面に落とした。


「その、まさか今日帰ってくるとは思わなくて……ルーク、ちょうど今日の昼頃、旅行に出掛けてしまいましたの」
「どこへ」
「場所まではわかりませんわ。でもアニスが一緒にいますし、心配は無用です」
「馬鹿野郎!心配せずにいられるか!」
「アッシュは、ルークを閉じ込めすぎですわ!!ルーク、何も出来なくて悲しんでましたわ!」
「だが今のあいつの躰にはっ……」


 アッシュはあまりの事態に怒鳴り、しかし続きを言う前にハッと我に返った。

 いや、この先を言うのは不味い。
 以前はレプリカだった相手にだとか今は世間的にも兄妹なのにとか色々と問題があるのだが、何よりもルークが女性になったその日にお、襲……
 いやいやいや考えるな俺!

 いきなり沈黙してしまったアッシュに、つい熱くなってしまったナタリアもまた我に返り、しかし首を傾げた。
 後にいた二人に意見を求める為振り返ったりするのだが、ラルゴは首を振る。
 リグレットも訳がわからないと首を振ったが、しかしこの親子よりは察しが良かった。


「アッシュ、あの子の躰に何かあるのか?お前が慌てる程のものが」
「……いや、別に」
「なら良いが」
「……おい、さっきガキと一緒だって言ったな」
「え?あ、はいそうですわ。あとアルビオール三号機に乗ってるので、ギンジ……でしたよね。彼も一緒だと思いますわ」
「わかった。悪いがリグレット、ラルゴ」


 アッシュがようやく二人の方へと向くと、それぞれに頷く。


「……ああ、早く行くと良い。きっと会いたがっているだろ」
「仕方無いな。私もあの子には弱い。あの笑顔には、誰にも勝てないからな……閣下には何日か滞在出来るよう伝えておこう」


 あの操縦者にも休息は必要だしな、とリグレットは笑った。












 空が闇に包まれ、時折吹く冷たい風によって砂が微かに動き、水が揺れる。
 砂漠の街ケセドニアの、夜でもまだ溢れるような活気ある人々を眼にし、ルークは久しぶりに心躍る気分になった。

 バチカル以外の土地に足を踏み入れるのは、本当に久しぶりだ。
 しかも夜に外を出歩いているのは、それこそ久しく。
 ルークは旅をしていた時の色んな事を思い出しながら、平和になったんだなぁと出店を眺める。


 本当、色々な事があった。
 色んな出会いがあって、傷つけて、傷つけられる事を知って。

 ……人もいっぱい殺してしまった。
 たくさんのレプリカ達の命も、犠牲にしてしまった。

 でも、それでも生きたいと願った。


 罪を背負って、それでも生きていけるのならば、今度は世界中のみんなを幸せにしてあげたい。

 そう、願ったのだ。



「ほらほらルーク、ぼさっと立ってないで、折角だから買い物しようよ!荷物持ちもいるんだしさ」
「え、おいらですか?」


 荷物持ちと言われて声を上げたギンジは、そうだよとアニスに頷かれると、元気良く「あ、了解しました」と返事をした。

 先程まで三人とも宿で休んでいた。
 それぞれに一部屋ずつ取れて、その中のアニスの部屋で三人でこれからの旅先を決め。
 そして太陽がそろそろ沈もうという頃に、夜の出店を眺めながら食事をしようと外に出たのだ。

 夜の砂漠は結構冷え込む為、今は三人ともそれぞれに外套を着て、ルークは頭まですっぽりとフードを被り、夜風から身を守っていた。
 アニスにも、理由はよくわからないが何故か、髪を出さない方が良いと言われた。

 三人で賑わう街を歩きながら、ギンジは役に立てて嬉しいと、屈託無く笑う。
 そんな表情が彼の妹のノエルとそっくりだと思いながら、だがルークは首を横に振った。


「ありがとな。でも良いよ、荷物くらい自分の分は自分で持つからさ」
「え、でも……ルークさんは女性ですし」
「そうだよぅルーク、こういう時は全部男に押し付ければ良いんだって!」
「でも前は、ちゃんと自分の分は自分で持ってたんだ」


 誰かに頼ってばかりは嫌だった。
 自分は兄が傍にいると、確実に寄りかかって甘えてしまう。
 だからせめてアッシュがいない時は、自分の事は自分でやりたい。

 しかしアニスはルークを見上げると、ふぅと溜め息を付いた。


「まぁ、確かに?もう夜だからそんなに買ったりはしないだろうけど。でも、頼って欲しいって思う人もいるんだって事、知っておいた方が良いよ?」
「え?」
「そうですよ、ルークさんは特に。今、笑ってるけど……とても無理しているように見えますから。おいらに出来る事があれば、してあげたいです」
「ナタリアだってそう。皆そう。そんな元気無いルークを見てたら、何かしてあげたくなるんだよ。今のルークの笑顔、楽しそうに見えるけど……でも、どこと無く空っぽだよ?」


 そんな事を言われるとは思っていなかったルークは、翡翠の眼を瞬かせた。
 ギンジは真っ暗の中に綺麗な星が光る夜空を見上げ、そしてまた笑顔を向ける。


「笑って欲しいんです、心から。ルークさんの笑顔は、見るだけで幸せになれます。そんな笑顔をくれるルークさんの事、きっと世界中の人が好きですよ」
「そうそう。ルークが笑うと皆も笑えるんだよ。知ってた?」


 知らなかったでしょ、と呆れたように肩を竦めるアニス。
 それに苦笑するギンジ。
 そんな二人を、ルークは驚き見つめた。

 本当に自分が笑えば、皆幸せになるのだろうか。

 かなり信じられない思いだったが、でも仲間達にそう言ってもらって、心配してもらえるのは嬉しくて。
 少しだけ笑みを浮かべつつ頬を染めて、俯く。


「まぁ原因の半分以上がアッシュなんだから、奴をここまで引き摺ってこれれば一番なんだろうけど。奴がいればルークって絶対笑うし?あ、これ美味しそう!おじさんこれ三つ下さーい!」


 アニスは元気良く出店の人に声をかける。
 はいよお嬢ちゃん!と言って渡されたものアニスが受け取り、慌ててルークはナタリアから貰ったお金を出した。
 支払いを終えると、アニスはギンジに先に渡したそれを、ルークにも渡す。


「ほらルーク。元気が出ない時は食べよう!」
「え、でも俺……ダイエットするんじゃなかったっけ」


 確かに凄く美味しそうな、紙に包まれたホカホカと暖かなアップルパイを眺めつつも、ルークは外套の上から自分の腹をさすった。
 このせいでアッシュが帰ってこないのではないかと、未だに思ってしまうのだ。

 しかしアニスは怒った形相で、ルークを睨む。


「何言ってるの!!食べて運動するのが一番のダイエットなんだよ!何も食べなかったら栄養失調で倒れるよ!」
「へ?ルークさん今ダイエット中なんですか?」
「男は口を挟まない!!」
「す、すみません……」


 背丈はギンジより随分小さいアニスなのだが、そんなアニスに怒られてしょぼりと項垂れるギンジに、ルークは何か込み上げるものを感じた。
 耐え切れず、ぷはっ!と吐き出してしまう。


「あ、あははははっ!二人ともおもしれぇ!」
「ル、ルークさん……そんなに笑わなくても」
「ごめん、でもっあははは!」


 本気で可笑しくて、ルークは腹を抱えて笑った。
 そんなルークに初めはビックリしていたアニスだったが、次第にアニスも笑い始めて、ギンジもまた笑みを零す。

 周りの人達も一体何だろうかと見つつも、彼女達の楽しそうな笑い声に、笑顔を浮かべた。




 しかしそういう時のタイミングとは、中々上手く行かないもので。



「……ほう?随分と楽しそうだな」
「…………ぇ」


 聞き慣れた、けれど長い間聞いていなかったような錯覚さえする、それ程にまで求めていた声がした気がして。
 そしてルークが振り返ると、そこには。


「お、兄……様…………?」


 口元に笑みを浮かべつつも、もの凄い怒りを露わにしたアッシュが立っていた。

 あまりの怒気に、会えた喜びよりも勝ってしまった恐怖に、ルークはふるりと躰を震わせた。





  to be continued...

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お兄様暴走。

2006.07.07
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