昼下がりに  
中篇

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 それから一ヶ月ほど。
 銀二が用意したマンションの一室で大人しく過ごしている森田は、今日も外に出る事は無く、一人で時間を持て余していた。

 窓際の陽が当たっているフローリングの上に寝そべり、眼を瞑る。

 一日が、ただいたずらに過ぎていく感覚。
 それは銀二から離れて過ごした時間に少し似ていた。

 何もしていないと、どうしたって彼の事を考えてしまうのだ。
 何度も何度も、忘れようとした。
 殆ど縁が無かった女性との交際もしたし、セックスもした。

 しかし彼があまりにも特別で、自分の心の奥深くまで根付いてしまっていて、ふと気付けばあの面影ばかりを追っている。


 そして、思い知らされた。

 離れれば離れるほど、心は銀二に捕らわれていくだけなのだと。


 一度魅せられた悪から、どうして離れられるなんて思ったのだろう?
 悪は甘美であり、自分にとってはとてつもない刺激を与えてくれるものであった。

 確かに、守れなかった。
 守りたい、救いたいと思うほど、この手からすり抜けていった。
 死が目の前に広がったあの時、心の底から悪を憎んでいた。

 だが、それでも捨てられなかったのだ。


 彼を…銀二を越えたいという想いだけは、どうしても。


 つらつら考えていると、玄関から物音が聞こえてきた。
 戸締まりはしているので、入ってこれるのは当然このマンションの一室の鍵を持っている者だけである。

 森田が躰を起こすと、ちょうどその人物が顔を出した。


「ちわっす森田さん。はいこれ。また適当に食料買ってきましたよ。あと昼飯の弁当も買ってきたんで、一緒に食べましょ」
「ああ。いつも悪いな良平」
「気にしないで下さいって。銀さんの使いなんですから」


 良平はにっと笑うと、テーブルに買い物袋を置き、あれこれと食材を出し始めた。
 それを、森田が冷蔵庫の中に詰めていく。
 肉や、野菜や、飲み物。
 カレーのルーもあるので、今晩作ってみようか。

 片づけが終わると、テーブルに座って良平の買ってきた弁当を二人でつつく。
 ここ一ヶ月の日課になっているような行動だ。


「あ、この竜田揚げ美味いな」
「ですよね。今日はちょっと高めの弁当屋に行ってきたんですけど、どれも美味そうで迷いましたよ。うーん、森田さんがここに居るようになってから、俺って凄く栄養バランスの良いもの食べている気がする…」
「ははっ、普段何食べてるんだよ」
「えー?カップメンとか、肉とか…肉とか?」
「ああ、野菜を食べないのか」
「そうなんです。だって勿体無いじゃないですか。もし焼肉食べ放題とか行った場合、野菜で胃袋を埋めるなんてしないでしょ。やっぱり男なら肉ですよ!」
「なるほど、確かに」


 頷いたら、良平はでしょ?と言って嬉しそうに笑った。

 そしていつものように銀さんや周りがどうなっているのかを一通り聞きながら昼食を終えると、一服をする為にベランダに出た。
 煙草を咥えればすぐにライターを差し出されるので、ありがたく頂戴する。

 香りを感じながらゆっくりと吸い込み、肺まで煙を行き渡らせ。
 そしてゆっくりと吐き出す。
 煙が出ていくと同時に躰の中がクリアになる感覚に、ああやっぱり美味いなぁと思う。

 昼下がり、こんな高級マンションのベランダで青く澄み渡るような空を見ながら煙草を吸うなんて、とても乙じゃないか。
 都会の空気でも、不思議と美味く感じる。

 そう……以前と同じように何もせず毎日が過ぎていくようで、実は全然違っていた。
 本当に銀二から離れている時には、心が満ちていなかった。
 生きている感覚が失われていた。

 だが今は、満ちている。
 自分のしたい事、すべき事が明瞭だ。


「森田さんがこのマンションで過ごすようになってから、もうすぐで一ヶ月ですね」
「ん?ああ、そうだな」


 良平は灰皿に吸い終わった煙草を押しつけると、ベランダの手すりに肘を付き、やはり自分と同じように空を見上げた。
 薄っすらとした雲が青に溶け込むように流れている様を、二人で眺める。


「……俺、アンタが銀さんの言う事を素直に聞くなんて思ってなかった」


 ぽつりと呟かれた言葉に、森田は思わず苦笑を零した。


「何だ、良平には俺が我が儘言って突っ走っちまうような男に見えてたのか?」
「いや、そう言うんじゃなくて。俺が銀さんに誘われてすぐの頃、みんなから話を聞いてたんすよ。森田さんの事をさ。で、俺の想像では、森田さんってもうちょっと抜けてる人なのかと」
「あぁ…」


 確かに、銀二や周りの悪党達からすれば、自分は危なっかしくて抜けているように見えていただろう。
 甘いと思われていただろう。

 それは事実だったし、もしかしたら今でも思われているかもしれない。
 自分には銀二が言っている強運しか無くて、実際あの人達に追いつこうとしたらまだまだ道のりは遠い。


「でもまさか、こんなに落ち着いていてしっかりしている人だとは思わなかったなぁ」
「は?」


 聞こえてきた言葉が思考とは真逆になっていて、思わず良平へと視線を落とすと、彼はちょっと照れくさそうに見上げてきた。


「一見は百聞に如かずってね。初めて森田さんを見た時、あんまりにも腰は座ってるし、眼を反らした瞬間食い殺されそうだしで、すげぇビビっちまいましたよ俺。それにあの時の銀さんとのルーレット勝負は凄かったなぁ」
「あぁ…あれは、俺も相当に必死だったからな」


 自分から離れていったくせに、何の代償も無しにまた傍に置いてもらうなんて出来るわけが無かった。
 彼が許したとしても、自分が許せなかった。
 だから勝負をしたのだ。

 ―――アンタを潰さないと、俺は浸ってしまった悪党ってもんから抜け出せそうにない。

 そうして持ちかけた勝負を、あの人はすんなりと受けた。

 サシでのルーレット。
 玉を任意の場所に入れられるような高度な技を持つディーラーを間に挟んでの勝負は、言葉や賭け場所や金を使い、いかにディーラーの心を読み、またいかにその者の意識を自分の読み通りに持ってこさせるかというものだった。

 赤か黒か、奇数か偶数か、それともどの数字か。
 どちらかの方に玉が入れば、相手の賭けた金をそっくり頂け、双方ともに賭けた場所に入らなければ金はディーラーのものになる。

 カジノのようなチップは使わなかった。
 実際の金を積んでの勝負。
 双方それぞれに場所を選び金を賭け、ホイールが回り玉を入れられた時に追加でベットを行う。

 しかしこのゲームで最終的にモノを言うのは、結局のところ運である。
 積まれた金と場の極度の緊張感にディーラーの手元が狂って、玉がどこに転ぶか全くわからなくなった瞬間。

 森田は、勝った。

 彼を圧したのは、誰にも抗う事の出来ぬ強運。


「あの瞬間、俺にはまだ銀さんの隣に立てる資格があると思えたんだ。あの人には、俺のような若造も必要なんだと」
「銀さんも、森田さんに勝ってほしかったみたいでしたしね」
「銀さんの元に帰りたくて吹っ掛けた勝負だって事が、バレバレだったからな」


 あの人が積もうと思えば、自分が持ってきた額の百倍は出せただろう。
 そうなれば、こっちは下りるしかなくなる。
 初めから手加減されていたのだ。

 しかしそれでも、あの時はそれで良かった。
 彼が必要としてくれる、そして自分には彼の手足になるだけの力があるという事を、自分が納得出来れば良かったのだから。


「一ヶ月か。……そろそろ頃合いかな」


 森田は二本目の煙草も吸い終わると、ベランダから部屋へと戻った。
 良平が慌てて灰皿を持って、後を付いてくる。


「ちょ、森田さん。頃合いってまさか…」
「ああ。そのまさかさ。お前だって、俺が銀さんの許しが出るまでずっとここにいるなんて思っちゃいないだろう?」
「そ…、そうですよね」
「一ヶ月待ったんだ。今なら周りを一掃出来るかもしれない」


 いや、かもしれないではない。
 一掃するのだ。

 自分の敵は、自分で始末する。

 これだけは銀二に何を言われようとも、絶対に譲れない。


「良平、明日からはここに来なくて良いから。あと、銀さん達には絶対言うなよ」
「わかりましたよ」
「それと。…期待、してるからな」


 森田がそう言えば、良平は微かに眼を剥いた後、任せて下さい、と不敵に笑った。




















 それから三日後の夜。
 森田は高層ビルの一階フロアにいた。
 黒いスーツにサングラスを掛け、一階を通り抜けていく人間達から死角になる暗がりでじっと佇む。

 良平から貰ったスケジュールだと、銀二はこれからこのビルの何階かで国会議員の一人と会う約束をしている。
 きっと、もうすぐ現れるだろう。

 彼が来るのを待っている間、入り口のガラスドアを見つめ、入ってくる人間や出ていく人間の流れを眺めていた。
 遠くからその光景を眼にしていると、微かにだが口元を歪めてしまう事を止められない。

 あそこを通る人間の何人が、自分に見られている事を気にするだろうか。
 否、気付きもしないはずだ。

 それに誰かから見られているからといって、どうなるというのか。
 そう、どうともならない。

 それは彼らが悪党では無いからだ。

 だが銀二は違う。
 ほら、彼が姿を現した途端、自分以外の人間も何人か彼を見ているではないか。

 これほど離れた場所から見ていても、銀二という男は圧倒的な引力を持っている。
 悪に染まりかけている人間にとって、あの男の力はどこまでも魅惑的だ。

 そして彼は、そういった人種の眼を引く事を、承知している。
 承知した上で、もっと引き込もうとする。
 より高みに行く為の足場を作ろうとする。

 銀二は後ろに一人だけ、若い男を付き添わせていた。
 あれは良平か。
 二人は一直線にエレベーターへと行き、そのまま一階のフロアから姿を消してしまった。

 森田は小さく舌打ちすると、ツカツカと乱暴に歩き、さっさとビルを出る。
 ビルの敷地内からも出て、とにかく人気の無い場所まで歩いた。
 そして裏手にある広場に入ると、ベンチに腰掛ける。

 サングラスを外し、ネクタイを緩め。
 きつく眼を瞑り、掌で顔を覆う。

 …あの人に追い付き、そして越えたい。
 越える為にはどうすれば良いのか。

 傍にいれば良い。
 それが一番確実であり、早い。
 銀二がもっと自分を必要とし、自分無くしては前に進めなくなる程に頼りにされるようになれば良い。

 そしてその瞬間に裏切ったのなら……あの人は、一体どんな顔を俺に晒してくれるだろう。

 苦痛に歪むのだろうか?


「―――…」


 いくつかの足音が聞こえてきた。
 近づいてくる。

 そして自分の視界に足が見えた。

 のろのろと顔を上げれば、数人のスーツにサングラスを掛けた男達と、それに守られるようにして、やはりスーツ姿の男が自分を見下ろしていた。
 その初老の男の顔を、自分は何回か見た事がある。
 確か、今日銀さんが会う議員とは敵対する党の議員だ。


「君が、森田君かね?」


 ―――掛かった。

 にやりと口元に笑みが浮かびそうになるのを耐える為に顔を顰め、森田は頷いた。





  to be continued...

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人などの名称を全部ぼかしているので、ちょっとわかりづらいかもです。

2010.02.17
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