遠雷  
中篇

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 三日が経った。
 外は、相変わらず雨が降っている事が多い。
 今も辛うじて降っていないものの、灰色の雲が空全体を覆っている。

 アカギは煙草を吸いながら、部屋の中をぼんやりと見つめた。

 今この部屋に、カイジはいない。
 また雨が降ってしまう前にと、近所のスーパーに買い物に出掛けていた。
 自分は故意的にここに残った。

 肺に入れた煙を吐き出し、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
 何もする事は無く、そのままだらりとベッドに横になって、眼を瞑る。

 三日前。
 ここにずっとはいられない、と。
 そう自分が発した言葉に対する彼の表情は、とてつもなく明るいものだった。


『ははっ、んな事いちいち言わなくたって良いっての。元々、誰も引き止めてなんていないぜ?』


 明るくて、酷く痛かった。
 人の表情を痛々しいと感じたのは、もしかしたらあれが初めてかもしれない。
 それほどに痛いと感じた。

 しかし、それもまた一瞬であった。
 その後は本当に何事も無かったかのように、普段通りの笑顔で昼飯をどうするかと聞いてきたのだ。
 だからこちらも、普通に答えた。

 それから三日間、自分はこのアパートから出ていない。
 ふらりと雀荘に行く事もしていなければ、どこから嗅ぎつけてきたのかヤクザの連中がここまでやってきて代打ちを誘ってくるも、全部断った。

 今まで、ここに留まる事は長くて二日だった。
 それでもカイジは気にしていなかったであろうし、自分も気が向けば再びここに来て、彼を抱く。

 だが、あの台詞を言ってしまってから。
 自分がドアを開けて姿を消した途端、部屋に残ったカイジがどうなってしまうのかと想像すると、ここから出られなかった。

 他人の感情を気にするなど、くだらない。
 脳のどこかではそう囁いている。

 それでも部屋のドアを閉めて中に戻る時の彼の顔が、自分をここに留まらせている。
 安心するようなものだったり、悲しみを滲ませていたならば、きっと出ていけただろうに。

 しかし変わらないのだ。
 全くもって普段通りなのである。

 彼が何を考えているのか、どれだけ探ってもわからない。
 読み取らせてもらえない。

 もし本当に二度とここに戻ってこなかったら、彼はどれほどに哀しむのだろう。
 ボロボロに泣いて泣いて、泣き続けるんじゃないかと思う反面、もしかしたら然程気にしないのかもしれないとも思えてしまう。
 とにかく、今のカイジからでは全く予測が出来無い。


「クッ、流石はカイジさん。やってくれる…」


 アカギは瞑っていた眼を開け、どんよりとした空を見上げながら自嘲を零した。

 全く、何たる策士だろうか。
 不明瞭にすれば、こちらが動けない事を……この心を強く縛れる事を、彼は知っているのだ。
 こちらがそういう部分に興味を示す事を、理解している。
 その上で完璧に隠せるのだから、賞賛に値するほどだ。

 そして、それだけ自分を理解しているという事実にもまた、囚われていく。
 きっと彼だけだ。
 探り、暴かれ、その上でほんの少しでも己を理解する事が出来る者なんて。


 じっと空を見上げていたら、窓にぽつりと水滴が付いた。
 それからぽつり、ぽつりと、いくつもの雨が窓に付く。

 ああ、降ってきたようだ。
 まだカイジは帰ってきていないが…。

 ふと気になり、ベッドから下りて玄関を確かめたのは、先日の彼の言葉が脳裏をよぎったからである。
 何となく、持っていっていない気がして。

 案の定、彼は傘を置きっぱなしにしていた。
 こちらが持っていかなかった時には怒ったくせに、どうしてその本人はこの天気で置いていくのか。
 最近の彼は、本当に不明瞭だ。

 小さく溜め息をつくと、アカギは部屋に戻って鍵や財布だけをジーパンに突っ込んだ。
 そして傘を手にする。

 ドアを開ければ、既に土砂降りの雨だった。
 傘を広げ一歩踏み出した途端、雨は打ち付けてくる。

 アカギは自分達がよく行くスーパーを目指して歩いた。
 こちらに向かって歩いてきているかもしれないし、スーパーの入り口で雨宿りしているかもしれない。

 数分歩いただけで、ジーパンの膝までがぐっしょりと濡れる。
 視界も、靄が掛かったように悪い。

 だが、ふと。
 こんな雨の中でも、血の臭いがした気がしてアカギは足を止めた。
 導かれるように、目的の人物を見つける。


「カイジ…さん?」


 名を呟いたが、まだ数十メートルは先にいる彼には、当然聞こえていない。

 カイジは躰が濡れるのにも関わらず、道路の脇にしゃがみ込んでいた。
 買い物は既に済んだようであるが、それも無造作に地面に置かれている。

 そして彼の視線の先にあるものに、アカギは少しだけ眉を寄せた。

 あれは…死骸だ。
 動物の。

 それを、カイジはじっと見つめている。

 アカギはカイジの傍にまで近寄り、彼と同じようにそれを見つめた。
 足音が聞こえただろうに、彼は顔を上げない。

 白かったはずの毛並みは、酷く汚れていた。
 微かにだが血の臭いもする。
 包帯も、赤に染まっていた。

 車に轢かれたのだろうか。

 アカギは動かなかった。
 雨に打たれる彼に、傘も差さなかった。
 ただ彼の頭を見つめ、その先にある塊を見つめ、傍に佇み続ける。

 静寂だった。
 己の心も、この空間も。

 静かに、ただなだらかに流れていく感情。
 死という概念に対し、自分はこんなものを感じていたのかと思い出す。
 とうの昔に忘れていたと思っていたもの。
 それは、死んでも良いと思いながらギャンブルを行う時とは、同じようで違っていた。

 対象が違うからだ。
 自らの命か、それとももう既に消えてしまった小さな命か。

 ああ、雨が降っていて良かった。
 空は暗雲が覆ってくれ、耳元で煩い程に雨の打ち付ける音が鳴り、すぐそこの世界すら遮断する。
 だからこそ、周りの全てから守ってくれる。

 ここにしゃがみ込んでいる人の、心を。

 そうして彼の心は、想いは、目の前の死骸にだけに捧げられる。
 祈りが、その魂に届く。







 自分がここに佇んでから、どれほどの時間が流れただろう。
 祈りは終わったのか、カイジは死骸に手を伸ばし、その塊を抱きかかえた。
 そしてこちらには眼をくれず、無言のまま歩き始める。

 彼が自分の横を通った時に見えた顔には、無表情が貼り付けられていた。
 雨で全身を濡らしているものの、涙を流している様子も無い。

 アカギはびしょびしょに濡れた置き去りの荷物を拾い上げると、彼の後を離れて付いていった。

 向かったのは、近所にあるこぢんまりとした寺だった。
 寺の周りは木が覆い、土が剥き出しになっている。

 アカギは敷地の入り口で止まった。
 カイジは建物に近づき、そこでようやく声を出す。

 中の人が彼の声に気付き、出てきた。
 何を話しているのかは全く聞こえてこなかったが、彼が首を振ったりしているのを見ているだけでも、十分である。

 何分かのやり取りの後、カイジは大きめのシャベルを借りた。
 無事、埋める了承を得たようだ。

 彼は木々の方に歩いていった。
 抱いていた塊を土の上に置き、シャベルを地面へと突き刺す。
 それから掬うようにして横に傾け、土を掘っていく。

 黙々と、そんな作業が繰り返される。

 びしょ濡れになっている姿を、暫くは遠くから見つめていた。
 傘を差している為、自分の躰はそれほど濡れていない。

 そんな彼との差が、そしてこの距離が、まるで夢に見たあの光景のようであった。

 これが夢であるかのような……彼とは存在している場所が異なっているかのような、錯覚。

 生きる世界が違うと。
 自分達の生きていく道筋は、分かたれているのだと。

 アカギは眼を眇めると、ひたすら穴を掘り続けるカイジに背を向け、歩き出した。















 暗い部屋の隅に座り、アカギはじっとしていた。
 雨は止んでおらず、時間が経つにつれてどんどんと酷くなっていく。

 風呂に湯は張った。
 部屋も先程まで暖房を入れていたので、まだ暖かい。

 飯の用意も、途中まではした。
 材料は切り終ったので、あとは炒めるだけだ。
 そんなもの五分で終わる。
 米も、先程炊飯器から炊き終わった音が鳴った。

 そんな状態で、アカギはただじっとしていた。

 部屋の電気を付けないのは、闇が彼をここまで導いてくれるからだ。
 少しでも暖かな光があれば、逃げていってしまう。
 そういう男だ。

 そういう男だからこそ、自分は惹かれ、惚れた。
 誰よりも強く生を望みながら、それでいて暖かい光ではなく、冷たい闇の中を突き進んでいく彼を。
 絶望の淵へと自ら飛び込み、たった独りで、それでも闇を照らすほどの意思の強さで生き抜いていく存在を。

 だが闇を進む人間達にとって、光は誘惑であると同時に、畏怖である。
 特に彼のように、光によって欺かれ裏切られてきた人間には、絶対に近寄れないものだ。

 光を求めた瞬間、自分が弱くなる事を…そして場合によっては死ぬかもしれないという事を、彼は知っている。


「………」


 アカギは静かに立ち上がった。
 そしてその場から動かず、ただじっと玄関を見つめる。

 カチャリ。

 音が鳴り、ついでドアノブが回った。
 真っ暗な中にカイジは入ってきて、いつもよりも幾分も緩慢な動作で、再びドアを閉める。

 鍵も閉められ。
 のろのろと靴を脱いだ、その瞬間。

 部屋の電気を付けた。


「っ………!?」


 カイジは眼を見開き、こちらの姿を見止めた途端、閉じてしまったドアにダンッと背中をぶつけた。
 しかし出口を自ら塞いでしまった彼は、そこから逃げられず、呆然としたままこちらを見返してくる。

 眼を逸らさないのは、流石というべきか。
 だがドアに張り付いたまま動けなくなってしまっているのは、この状況を全く想定していなかったからだろう。

 今、カイジの思考は殆ど停止している。
 なんで、どうして?
 そんな疑問すら、きっと浮かばなくなっている。

 彼の躰はびしょ濡れに加え、泥にまみれていた。
 相当に寒いのか、全身もガタガタと震えている。
 彼自身が今にも死を迎えてしまうのではというくらい、冷たくなっているのではないか。
 そしてそれ以上に、心が弱りきっている。

 だからこそ、ドアに背中を押し付けたまま、動かない。
 手を動かして、掛けた鍵を再び開けるという事が出来無い。

 そもそも普段の彼ならば、ドアを開けて入ってきた瞬間には気付けたはずだ。
 自分がこの部屋にいる事を。

 カイジを追い詰めたアカギは、それでも無理に部屋に上がらせようとはしなかった。
 呆然としたままこちらを凝視してくる眼を捕らえたまま、一歩、二歩。

 ぎしり、ぎしりと床を鳴らしながら、自らの意思でないと部屋に上がれない、そんな距離で止まる。

 そしてゆっくりと。

 手を、差し出す。


「……おいで」


 囁く言葉は、誘い。
 心身ともにぼろぼろになり、隙だらけになった彼に向かう、甘い誘惑。

 より一層大きく眼を開く今のカイジは、とてもわかりやすい。
 いずれ流れるかもしれない、そんな言葉に一瞬の動揺を見せた心と、全てを覆い隠した仮面は、猫一匹で剥がれてしまった。

 ―――流れた結果、死んだ白猫によって。

 そうして見えた彼の心にあったものは、恐怖だ。
 離別への恐怖を隠していた仮面が、死という絶対的な喪失への恐怖によって壊れたのである。

 カイジはたった一日しか共に生活しなかった猫の為に雨の中でも長い間祈り、まるで狂ったようにドロドロになりながら穴を掘って、そこで様々な事を考えてきただろう。
 そしてそれは、簡単に想像がつく。

 失う恐怖に苛まれ身動き出来無くなる前に、これ以上関わらなければ良い。
 まだ出会って一年も経っていない。
 そうだ、このまま忘れれば良い。

 そうすればきっと、自分はまだ強いままの自分でいられる。

 だからこの部屋に光が漏れていなかった時、一抹の寂しさはあったかもしれないが、それ以上に安心したはずだ。
 冷たい闇にいる方が、彼は強くいられるのだから。

 だが、甘い。
 そんなにも隙だらけになった心を、一体誰が見逃すというのか。
 自分はそれほど、優しくはない。

 一度狙った獲物は確実に手に入れる。
 隙があるのならば、容赦無くそこを突かせてもらう。
 そうしてカイジが今以上にボロボロになるのだとしても……絶対に逃さない。


「おいで、カイジさん」


 ぼろり。

 大粒の涙が彼の頬を伝った。
 雨ではない、いくつもの雫が流れ、落ちていく。

 ガタガタと震えながら、それでも暖かな部屋によって、躰も少しずつ温まってきている事だろう。
 そして、それに比例するように流れる、涙。

 彼の背中は塞がれている。
 前にしか進めない。

 そんな状況下でなお、アカギはカイジに選ぶように促す。

 カイジは呆然と涙を流したまま、しかし甘い誘惑に魅せられたように、のろのろと前に進み始めた。
 一歩、一歩と足を動かし。
 差し出している手に、触れようとする。

 指先が触れ合った瞬間、彼は脅えるように大きく躰を震わせ、手を浮かせた。
 それでも動かずに待っていると、そろりとまた触れてきた。

 冷たい指先が重なり、ゆっくりと、掌が合わさっていく。

 完全に互いの掌が合わさった時になって初めて、アカギは動いた。
 カイジの手を握り、軽く引く。

 彼の躰が、自分の胸の中に納まる。
 冷たい躰の背に腕を廻し、包み込むように抱き締め。

 濡れた髪を、優しく撫でる。


「………ぅ」


 そうして縛り付ける。

 彼の心を。
 躰を。


「ぁ、…う、あぁ…ぁ……うあぁぁあ…!」


 決して、この腕の中から逃れられぬように。





  to be continued...

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2010.03.10
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