薄暗い空に、打ち付けるような大雨の中。
その中を、誰かが佇んでいた。
全身を濡らし、ただじっと、黒い雲を仰ぎ見ている。
だがそこに、寒いだとか冷たいといった様子は見られない。
何故自分は濡れていないのかと、不思議に思った。
自分も大雨の中に立っているはずなのに、雨を感じない。
そもそもそれほど遠くからでもない場所からその者を見ている筈なのに、気配を感じない。
まるで、そう…自分とは存在している場所が異なっているかのようだった。
多分、本当にそうなのだろう。
今あそこにいる、この眼に映るあの者の死を、既に見た事があったから。
あの姿が幻であるのならば、ここは自分のいるべき場所ではない。
そう思い、背を向けようとした時。
その者が、ゆっくりとこちらを向いた……気がした。
遠雷 前篇
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しとしとと降る雨粒が、髪や服を濡らしていく。
まだ昼前だというのに、辺りは薄暗い。
だがアカギの足取りはいつもと変わりはなく、少しゆったりとした歩調で地を踏んでいた。
手には、買い物袋がぶら下がっている。
カイジが眠っている間に、冷蔵庫に食料を入れておこうと思ったのだ。
彼と知り合ってから数ヶ月。
いつの間にか、共に暮らすようになっていた。
毎日というわけでは無いが、一ヶ月のうちの三分の一は彼と夜を共にしている。
そんな時は当然、共に食事をし、眠り、共に目覚めている。
もしかしたらそれが、人間としては当たり前の事なのかもしれない。
今まで経験した事の無い穏やかな生活に、まだ少しばかり戸惑いもするが。
…それも、悪くはない。
小さな水溜まりを跨ぎ、道の角を曲がる。
この地帯は住宅街であったが、天気が悪いせいか道通りに人の姿は無かった。
だが家の窓からは光がたくさん漏れていて、人の住む気配はいくらでもする。
自分も早く帰ろうと、歩調を少しだけ速めて。
しかし雨の音しかしないはずの中に、何か鳴き声のようなものが聞こえた。
「………?」
アカギは立ち止まった。
耳を澄まし、雨の中の声を探す。
確かに聞こえてくる鳴き声。
その鳴き声のしてくる方向へと気配を探り、脇道をじっと見つめると、こちらを見返してくる存在がいた。
以前だったら、気に留める事も無かったかもしれない。
いや、今も何か特別な感情があるわけではない。
それでもアカギは、脇道へと足を進めた。
鳴き声の主は、近づいても全く逃げようとしなかった。
研ぎ澄まされた金色の眼を、じっと向けてくる。
首輪が付いていないところを見るに、野良なのだろう、体躯のしなやかな白猫だ。
猫の前にしゃがむと、猫は一瞬だけ怯み、だがやはり逃げはしなかった。
雨が降っている為にわからなかったが、よくよく見てみると足を怪我していて、血が滲み出ている。
流れた血は雨と混ざり、消してしまっていたのか。
そのまま何もせずにただ見ていると、猫は次第に警戒心を取り、こちらに向かって、にゃーと一つ鳴いた。
そこでようやくアカギは手を出した。
抵抗しない猫を持ち上げると、雨で湿り冷たくなっているのを気にもせず、腕の中に抱きかかえる。
腕の中の猫は、嬉しそうに胸へと顔を擦り付けてきた。
玄関を開けて、いつの間にか寝てしまっていた猫を抱えたまま無言で靴を脱いでいると、カイジが部屋からひょこりと顔を出してきた。
ようやく起きたらしい。
「お帰りアカギ…ってなんでズブ濡れなんだよ!雨降ってんのに傘持っていかなかったのか!?」
こちらに来るや否や、もの凄い剣幕で詰めかけてこられて、アカギはどうにも反応が出来無かった。
傘を持っていかなかったのは、今までそういった習慣が無かったからで、今カイジから言われるまで存在すら忘れていたくらいだ。
呆れながらも顔を覗き込まれ、戸惑うように両手が頬を包んでくる。
「ぅ…こんなに冷えちまって…」
徐々に体温を奪われていたせいか全く感じなかったのだが、彼の手がいつも以上に暖かく、そしてようやく自分の躰が冷たくなっていたのだと理解した。
そう思うと不思議なもので、今更かもしれないが寒いと感じる。
アカギが何も言わないで佇んでいると、両手はそのままにカイジの顔が近づいてきた。
唇が重なり、しっとりとした柔らかな感触が伝わる。
腕の中で、猫がもぞもぞと身じろぎをした。
「た、タオル。持ってくっからよ」
唇が離れると、カイジは顔を真っ赤にしながら眉を寄せて、足早に部屋の中へと入っていった。
何枚かのバスタオルを持って、すぐに戻ってくる。
だが今度はこちらには眼もくれず、彼は腕の中の猫にふわりとタオルをかけた。
そして腕から抱き上げる。
「ああ、怪我をしてるのか。どうりでアカギの腕の中で大人しくしていると思った」
「…どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だよ。お前に懐くなんて、相当の理由があると思うのが普通だろ?」
「酷い言い草ですね。俺を何だと思っているんですか」
「さぁな。ほらタオル。ちゃんと拭けよ。着替えもするように。濡れた服は洗濯機の中に入れておいてくれ」
ついでにアカギが持っていた買い物袋も奪うように取ると、言う事を言って、カイジは拾ってきた猫と共にまた部屋の奥ヘと行ってしまう。
起きた猫がこちらを見ながら、にゃーと鳴き声を廊下に残していった。
取り残されたアカギは、渡されたバスタオルを見つめて小さく吐息を零した。
言われた通り服を脱ぎ、手渡されたバスタオルで躰を拭く。
ある程度水滴が滴らなくなったら、玄関のすぐ近くにある洗面所へと入り、濡れた服を全部洗濯機の中に突っ込んだ。
部屋の中は、外の冷たい雨や湿気とは違い、柔らかな電気が部屋を照らしていた。
カーテンが閉め切られ雨の景色を遮断している為か、気持ち的にも暖かく感じる。
カイジはベッドに座り、猫の足に包帯を巻いていた。
意外と手先は器用で、それなりに綺麗な手当てだ。
アカギはベッドに座っているカイジの姿を確認しつつ、箪笥の中から適当に服を出して、着替えた。
それからテーブルの上に移動されていた買い物袋の中身を、冷蔵庫の中に移していく。
やる事を全部終えて、ようやく彼の隣に座った。
怪我の治療は終わったのか、次はタオルで猫の躰を拭いている。
「これでよし、と。…あ、こら」
煙草を出して火を付けようとしたら、タオルから開放された白猫が飛んできた。
すと、と膝の上に乗り、にゃーにゃー鳴く。
まるで構ってくれとでも言っているような気がして、試しに撫でてみる。
すると、猫は膝の上に完全に座り込み、眼を細めごろごろと鳴いた。
カイジが綺麗にしたおかげか、白猫は艶やかな毛並みをしていて、触り心地が良い。
「そいつ、本気でお前に懐いてるな」
ベッドに浅く腰掛けた状態のまま、カイジが呆れ顔でこちらを見てきた。
「そうみたいですね。俺、どうしてか動物に懐かれる事って多いですし」
「ああそう……。くそ、嬉しそうな顔しやがって」
「…嫉妬ですか?」
すると、カイジはむっと眉を寄せた。
「わ、悪いかよ」
「動物に嫉妬しても意味無い気がしますが」
「はぁ?お前、その猫に向かってどんな眼してたか自覚ないのか!?こっちは随分遅ぇなって心配してたのに、やけに優しい眼して大事そうに抱きやがって」
俺の特権だと思っていたのに…と愚痴を零したカイジに、アカギは思わず苦笑を零した。
こんな小さな動物に敵意を向ける方が可笑しいと思うのだが、どうだろう。
とにかくは機嫌を治してもらおうとカイジの後頭部に手を添え、引き寄せる。
そうすればカイジは眼を閉じた。
唇を寄せ、軽くキスをして。
唇がほんのりと触れ合ったまま、アカギは僅かに笑みを浮かべる。
「続きはベッドの中で…というのは、どうです?」
「望むところだ」
カイジもニヤリと笑い、アカギの首に腕を回そうとする。
アカギは膝の上にいた猫を持ち上げ、床に下ろした。
しかし白猫はにゃー、と鳴き、足に擦り寄ってくる。
「あっと。腹空かせてんのかな。何かあったか…?肉とか、魚とか……」
何度も頭をすり付けてくる猫に、カイジは慌ててベッドを下りてキッチンへと走った。
その間、アカギはじっと猫の甘えてくる行為を見ていた。
ふと意識が浮上し、アカギは眼を開けた。
辺りはまだ暗く、夜は明けていないようだ。
何時だろうかと時計を見れば、五時少し前。
起きるにはまだ早い。
薄暗い中、隣にはカイジと、そして拾った猫が丸くなって眠っていた。
あの暗がりでも浮かび上がる金色の眼は、今は閉ざされている。
…夢を見た。
そう、夢。
もう存在していない者の、後ろ姿。
久しく忘れていた人が、大雨の中を佇んでいた。
そういえばどんな顔をしていたのだろう、その表情は見る事が出来無かったように思う。
ただ後ろ姿でも、あの人なのだとはハッキリとわかった。
「夢、だ」
まさかこの猫のせいであんな夢を見たのかという考えが一瞬だけ頭を過ぎったが、馬鹿げているとも思う。
一つ溜め息をついた。
乱れた髪を掻き揚げ、カイジの方に躰を向ける。
そしてその躰を抱き締めれば、彼は寝ていながらももぞもぞと動き、こちらへと擦り寄ってきた。
アカギは眼を閉じた。
眠気はすぐにやってきた。
「…行っちまったな」
一度だけ振り返り、しかし迷い無く駈け出していった猫に、カイジは少し寂しげな声を発した。
アカギもカイジの後ろに立ち、いなくなった方向を見つめる。
「仕方無いでしょう。こんな場所にずっと居続けるより、自由に歩き回る方を選んだ。野良の性分なんでしょ?」
昼に雨が止み、その薄暗い灰色の空を窓辺に座ってずっと見ていた猫に気付いたのは、アカギだった。
それをカイジに伝えれば、カイジは少し逡巡するも猫を抱えて外へと出た。
アカギもその後を付いていった。
猫は、何度か外の景色と、こちらとを交互に見ていた。
そしてにゃーと鳴いて、カイジの腕から飛び出していった。
足に巻いた包帯が多少気になりはしたが、走れるのなら大丈夫なのだろう。
「ほら、そろそろ部屋戻りますよ」
「おう……」
促せば、カイジは名残惜しげに見つつも、アパートの階段を上がっていった。
見ていても、何も変わらない。
猫が戻ってくるわけではないのだ。
だがカイジ同様、自分も少々名残惜しいと感じているようだ。
たった一日だったけれども、懐かれていたからだろうか。
愛着というものは、意外とすぐに持てるものらしい。
しかしそれ以上に、あの猫を見つめていたカイジの横顔を見たら、急かさずにはいられなかった。
なんて哀しい顔をしているのだろうか、と。
たかが猫一匹に対して。
そして、だからこそ口にせずにはいられなかった。
「俺も…いずれまた、流れるかもしれない」
「え?」
階段の途中で振り返ってきたカイジは、まだ一段も上がっていなかった自分を見下ろしてきた。
その表情は、酷く驚いている。
「ここにずっとはいられない。…俺は、また。狂気を求める日が来る」
野良猫が一箇所にとどまる事無く、歩くように。
自分もまた、昔からギャンブルという血塗られた生き方をし、今もそんな生き方しか出来無い。
今更、生き方を変える事は……きっと、無理なのだから。
to be continued...
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2010.03.05
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