遠雷  
後篇

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「ぅう、っ……うう、ひっ…」


 カイジは痛いほどにしがみ付いて、泣いた。
 しゃくりあげ、嗚咽を零して、まるで子供のように涙を流す。

 アカギは震える背中をさすり、濡れた頭にいくつもの口付けを降らしていった。
 いくつも、いくつも。

 それでもカイジは泣き止まない。
 ずっと堰き止めていたものが溢れ出ていくかのように、止まらない。

 だがこんな冷えた躰のままで、ここに佇み続けるわけにもいかないだろう。


「カイジさん、風呂沸かしてあるから」
「ゃだ!…嫌だ、ぅう……嫌だ!!」


 ちょっとだけ離れて、なんていちいち言葉にしなくても察したようで、カイジは悲痛な叫びを上げて首を横に振った。
 絶対に離れたくないと、訴えてくる。

 しかし現状ですら既に体調は崩れているだろうに、これ以上酷くなったら病院に連れて行かなければならなくなる事を、彼はわかっているのだろうか。
 そうなったら余計に、離れなくてはならないというのに。

 アカギはむずがるカイジの躰を半ば引き摺るようにして、脱衣所に連れていった。
 胸に顔を埋めたまま全く離れようとはせず、そんな状態で肌に張り付いている濡れた服を脱がせるのは至難の業である。
 それでもどうにかして彼を全裸にし、アカギ自身は服を着たまま共に風呂場に入った。

 コルクを回し、暖かなシャワーを頭から注いで泥を落としていく。
 ある程度綺麗になったらすぐにシャワーを止め、カイジを抱き上げた。


「やっ」


 湯船へと浸からせて。


「ぅ……ぁ、アカギ、やだ…いやだ、ううっ、う」
「服、脱ぐだけだから」


 ほんの一時触れ合えないだけで、カイジは縋るような眼を向け涙を流し、風呂の中から必死になって手を伸ばしてきた。
 上着を脱いでいる間はジーパンの裾を握られ、下を脱ごうとすれば今度は手を掴もうとする。

 脱衣所に脱いだ服を放り投げ、アカギも湯船に入った。
 いつもは風呂に一緒に入ろうものなら、狭いだとか引っ付くなとか文句を言うくせに、今日は彼から人の懐に飛び込んでくる。
 首筋に顔を埋められ、胸やら下肢が密着する。
 それでも足りないのか、もっともっとと躰を押し付けてくる。

 躰に腕を廻し、包み込むように抱き締めて初めて、カイジは安心したように熱い吐息を吐いた。
 湯船から出てしまっている肩や背に湯を掛けてやりながら、眦に唇を落とす。


「カイジさん、もう泣かないで」
「っ……、だって、怖いんだ…っ。離した途端お前が…お前が、死んじまうんじゃないかって、思っ…と!…怖いっ…!怖い…っ」
「俺は、そう簡単には死にませんよ」
「嘘だっ…嘘。そんなの、嘘ッ」


 そう、嘘だ。
 死なないなどとは、まやかしの言葉でしかない。

 死は、時として酷く簡単に訪れる。
 ギャンブルでの死など、まだ簡単とは言わない。
 死にたくなければ、片足すら浸らせなければ良いだけの話だ。

 だがこの世には、どうしたって抗えないものがある。
 あの猫のように事故に遭ったり、または自然災害に飲み込まれたり、病気になったり。

 眼を離した瞬間死んでいるかもしれない、と。
 目の前で死んでいった人間達の姿をいくつも見てきたカイジが、脅えるのは当然か。

 …しかし。


「誰にだって、死は訪れるものですよ。それに対して泣いてみたところで、どうにかなるものでも無い。失ったらそれきり。どれだけ泣いても、死んだ者は戻ってなど来ない」


 アカギは事実だけを淡々と答えた。

 カイジが顔を上げた。
 だがその眼には、怒りが篭っている。
 それすらも、アカギは淡々と見返す。


「お前には、わからないのかよ?失う哀しみってのがっ!……ああ、わかんねぇんだろうな…。死んで良いなんて思いながら、本当に死にに行くようなギャンブルしか出来無いお前には、何一つとて。残された人間の気持ちなんて…寂しさなんて、全っ然わかんねぇんだろ!?」
「……そうですね。わかりませんよ」
「っ…!」
「残された者の感情なんて、死んだ人間にとってはどうでも良い事柄じゃないですか?だって、もう死んでいるのだから。…俺はずっと、そう考えてきた。人が、そして多くの命が死ぬ時、きっと誰もが独りきりだ。生きている者に、死んでいく者の苦しみや痛みなど理解出来無い。死にたくないと願う気持ちが、まだこれからも生きていける者とはわかり合えない。だから、たとえ俺が今ここで死んだとしても…誰かに哀しんでほしいとは、思わない」


 カイジはぐっと息を詰め、それでも睨んできた。
 泣きながら、それでいて強烈なまでの光と熱を湛えて。

 ああ、好きな眼だ。
 惹き付けられると素直に言葉に出来るような、強く鋭い眼。

 そして、きっと誰よりも―――優しい眼だ。


「ぅ、う……っ、…う」


 交差する、互いの双眸。
 カイジは大きく躰を震わせ、ボロボロに泣きながら、しかし絶対に逸らそうとしない。

 そうして流される涙に、心は揺さ振られていく。
 締め付けられていく。

 強く、強く。

 何故こんなにも、心が苦しくなっていくのか。
 その理由を、理解していた。
 他ならぬ、自分の事だから。


「カイジさん」


 アカギは涙に濡れる頬を、掌でそっと包んだ。
 衝動に揺さ振られるまま、唇を寄せていく。

 泣きながら、カイジは受け止めた。
 合わさった唇は、酷く甘い。


「…アカギ」
「……何?」
「俺を、抱けよ。抱いて、俺に、お前を…感じさせてくれよ…っ」


 唇は触れ合ったまま、嗚咽交じりに漏らされた言葉に、アカギは頷いた。




















 ゆっくりと吐き出していった紫煙が、薄暗い部屋の中に溶けて消えていく。
 それからもう一度吸い、肺に巡らせていく。

 ベッドから出ている上半身は何も身に付けておらず、少し冷たい空気に刺激されてすぐに眼が冴えた。


「………」


 また、夢を見た。
 前と同じ、雨に佇む夢。
 だが前と違っていたのは、あの者がこちらを振り向いたという事。

 ぼぅと浮かび上がる煙草の先を見つめながら、アカギは微かな呟きを漏らす。


「…笑っていた」


 静かに、哀しみを滲ませた微笑であった。
 当時の幼すぎる自分には、到底理解出来無かった表情。

 しかし死が怖いが故のものではなかったと、今ならわかる。

 自分があの猫に対して抱いた感情と同等……いや、もっともっと深い哀しみと、愛情を向けられていた。
 そう、あの人は死が怖かったのではない。

 残す事となる自分を想って、笑ったのだ。
 自分の産んだ子が、まだ幼いのに独りで生きていかなければならない。
 けれど涙を流せば余計に哀しませ、苦しませてしまうからと。


「慈しみ、か」


 あの人が死んだ時から、心の奥底に追いやられていたもの。
 そしてそのような感情を今まで忘れていたのは、きっと生きていく上で不必要だったからだ。

 独りである自分には、邪魔だった。


「ぅ…ん、」


 微かな呻き声が聞こえて、アカギは床に置いてあった灰皿に煙草を押付け火を消すと、隣で眠っているカイジのおでこに触れた。
 いつもよりも体温が高く、呼吸も乱れている。

 昨日あれだけの雨に打たれ続けたのだから、熱が出てしまっても仕方無い。
 しかもその後、彼が泣きながら気絶するまで躰を重ねた。
 これからもっと、躰中の菌を殺そうとして熱が上昇するだろう。

 おでこから頬へと指を滑らせていき、泣きすぎて腫れてしまっている眦にもそっと触れる。

 カイジは泣いた。
 泣いて、泣いて、眠りに落ちるまで泣き続けた。

 自分の事を想って、ずっと泣いてくれていた。

 それはまだ、己が生きているからだ。
 死んだら哀しいのだと、伝える事が出来るから。

 だから、心が揺さ振られる。
 苦しくなるほどに締め付けられていく。
 自分がいなくなる事に心の底から哀しんでくれるから…それほどに、慈しんでくれるから。

 そうしてどんどんと、自分は彼という存在に惹かれ、捕らわれていく。


「…死、か」


 シーツの上に散らばった髪を梳き、薄暗い部屋の中に微かに見える寝顔を覗きながら、アカギはもう二度と帰ってこない白猫に思いを馳せた。

 あの汚れた塊をカイジが腕に抱いた時、そして埋めようとしていた時、まるで生きる世界が違うようだった。

 それは、自分が真っ先に抱いたものが諦めだったからである。
 死に対する、諦め。
 死んだ者は戻ってこない、そんな事実が真っ先に脳裏に浮かんだ。

 カイジと自分とでは、あまりにも一つの概念に対しての捉え方や考えが、違いすぎている。

 だが、だからこそ見惚れもした。
 亡くなったものに対して、自らの感情に揺らぎ哀しんで涙を流すよりも先に、死んだ魂を想い、祈りを捧げた彼の姿に。
 生きていた頃の、共に過ごしたほんの僅かな時間をなぞりながら、慈しんだ彼に。

 まるで、夢のような光景。
 目の前の光景全てが、幻のように儚すぎた。

 しかし、そんなもので離れるほど、自分は浅はかではない。

 生きているのだ、己も、この男も。
 降る雨は冷たいと感じ、手を伸ばせば触れ合え、抱き締め合え、暖かいと感じる。

 たとえどれだけ互いの思考が食い違い、理解し合えなくても……人は、寄り添える。


 もうすぐ夜が明け、晴れているならば東の空が赤くなってくる時間だった。
 だが部屋の中はまだ微かに辺りが見える程度にしか明るくなっておらず、外からは相変わらず激しい雨音が聞こえてくる。

 アカギは窓を遮るカーテンを少しだけ開き、外を見た。
 降り続ける雨の中に振り返る人の存在はもう跡形も無く、ただ暁の空に、遠雷の光が一瞬白く光っただけだった。















 額に絞った濡れタオルを置こうとしたら、カイジが薄っすらと眼を開けた。
 泣きすぎて痛いのか、具合が悪いからか、すぐに閉じられたが。
 その代わり、微かに口を動かす。


「…アカギ」
「何?」
「水、くれ…」


 擦れた声に頷き、ベッドヘッドに置いておいたペットボトルに手を伸ばした。
 キャップを取って中の水を自分の口に含み、それをカイジの唇を合わせ流してやれば、彼はこくり喉を鳴らして素直に飲んでいく。

 時折熱い咥内に舌を入れ、絡めながら、その動作を何度か繰り返し。
 ちゅっと音を鳴らし唇を離して、顔を覗き込んだまま囁く。


「…他に欲しいものは?」
「…………」
「カイジさん?」
「…お前が、そこにいてくれるなら。それで、良い…」
「わかりました」


 頷き、アカギはベッド脇に腰掛けた。
 避けておいたタオルを再び彼のおでこに乗せ、それから何度も彼の頭を撫でる。
 そうすればカイジは、こちらの太腿に擦り寄り、引っ付いてきた。

 静まり返る部屋に、聞こえてくる雨音。
 しかし今朝方よりもだいぶ弱まった雨は、しとしとと微かな音を伝えてくるだけだ。
 心地良く緩やかな時間が、流れていく。


「……お前が」


 そろそろまた眠るだろうかと思っていたところに、カイジが呟いた。
 瞼を重たそうに開き、見上げてくるその眼を、見返す。


「お前が、死んでも。俺は、絶対に…泣かねぇからな」


 小さく、けれどしっかりとした音で伝えられた言葉に、アカギは微かに笑みを浮かべた。
 自然と、笑っていた。


「ア、カギ…?」


 その表情が、一体彼にはどう映ったのか。
 驚いたような声に、アカギはゆっくりと言葉を重ねていく。


「いいよ。アンタは、それで良い」
「ぇ…」
「涙を堪えて、俺への想いを決して零さないでくれれば。そしてその躰に、心に、刻み続ければ良い。貴方が死を迎えるまで、ずっと、俺に捕らわれ続ければ良い。…俺は、それで良い」
「な、ん」
「その代わり、アンタが死んだ時には俺もそうしよう。アンタを、想い続ける」


 熱に浮かされながらも、何を言われたのか徐々に理解していったのだろう。
 驚愕に眼が見開かれ、次いでくしゃりと顔が歪められる。


「そんな。そん、なの。…だって、お前」


 そう、昨日彼に告げたばかりだ。
 死ぬ時は独りきりだと。
 誰かに哀しんでほしいとは思わないと。

 あの言葉に、偽りは無い。


「でも俺は、カイジさんと出会って、アンタの優し過ぎる心に惹かれた。どれだけ裏切られても真っ直ぐに歩くアンタに導かれるように、俺は誰かを慈しむという感情を知った。だからもし死ぬ時が来たのなら……恐怖よりも、貴方を想って死にたい。ただ、それだけ。俺がそう想うというだけで、カイジさんに哀しんでほしいわけじゃないし、俺が死んでも、カイジさんには生き続けてほしい」
「っ、う……うぅ」
「カイジさん、泣きすぎですよ。これ以上腫らして、眼が開かなくなったらどうするの」
「お前がっ…泣かしてんだろうが!」


 喚きながらも流石に痛いのだろう、カイジはおでこに置いてあったタオルをずるずると目元まで持っていき、必死に涙を止めようとしている。
 アカギはあやすようにカイジの頭を撫でながら、笑みを浮かべた。

 クツリと、微かに喉を鳴らして。








 そう。
 そうやって捕らわれ続ければ良い。
 貴方に魅了され捕らわれてしまった、この心に。

 離れなければ良い。
 涙を流す貴方から離れられなくなった、この躰から。


 ―――そして共に流れ、生きていけば良いのだ。

 強く生を望み続ける貴方とならばきっと、より深い闇へと、沈んでいけるから。





  ...end.



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自分の持っているアカカイイメージを注ぎ込んでみました。
アカギは根底にギャンブルが絶対必要な人間だと思います。
カイジといるのも、きっとその方が強烈な戦いが出来るからだろうなと。
アカギにとって、カイジは深海の闇を自ら照らせるとてつもなく強烈な光そのものであってほしい。

2010.03.20
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