それはまるで、聖母のように。
cross
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枯れ葉が風に流される様を見ながら、窓際で、緩やかに差し込んでくる太陽の光を浴びる。
もう、何年も見ていなかったはずの光なのに、まるで昨日も普通に見ていたかのような錯覚に陥りそうになった。
いや実際には、見ていたのだろう…躰はずっと生きていたのだから。
けれどこの躰は痩せて細り、以前のように筋肉など全く付いていない。
こうして椅子の背凭れに寄りかかり、外を眺めているだけだというのに少し疲れが出てくる。
……大体、なぜ俺は生きている。
死を、覚悟したはずだ。
死ねばいいと自分に何度も言い聞かせ、追っ手が来ようが、刀を振るおうともしなかった。
だが、俺は生きていた。
『生きろ。アンタになら、それが出来る』
何度も何度もそう言ってきたのは、アキラだった。
それ程強くもないくせに、俺を守ろうと必死になってナイフを血に染めていた。
「……馬鹿が」
自ずと溜め息が出て、そんな言葉を呟いていた。
その言葉を向けらている筈の当の本人は現在買い物で出かけているので、聞き入れる者はいない。
なぜ、俺が死のうとしたのか。
あいつはそれをわかってはいなかった。
今もきっとわかってはいないのだろう……なぜ、俺がこの心を閉ざしてしまったのかを。
確かに、まさか心を失くしている状況になっているのだとは自分が気付くはずもないが、結果として眼を覚ました今なら、その理由は一つしかないとわかる。
確かに俺は弱かった。
けれど、お前が思っている程に、弱くはない。
この自己は、生きる上で求める強さを失ってしまっているかもしれないが、そんな事が理由で死のうと思いたくなる程、逆に言うならば……強くはない。
開いている窓から、ふわりと風が入ってきた。
髪の毛が流れ、思わず眼を細める。
少しばかり長くなっているが、時折アキラが切ってくれたりでもしたのだろう、とそんな事をぼんやりと思う。
外の景色は、いつもどこにいようが存在していた、まるで行く先を遮るかのように聳え立つビルの群集が見当たらなかった。
その代わり、青空が広がっている。
白い雲が所々に薄っすらと敷かれ、透き通っているようにも見える。
そして、その青空を、鳥達が鳴きながら飛んでいる。
空とはこんなにも広いものだったか。
これだけ広く高ければ、声は聞こえるかもしれない。
どうせ誰も見ていないのだから、少し願っておこうかと右手で胸の辺りを探った。
一つの十字架を掴み、だがいつもはある、もう一つの小さな十字架が無くなっている事に気付いた。
カッと躰が焦りに駆られ、熱くなる。
なぜ、と、そう思った時には、いきなり視界が変動していた。
「……っ!い…っ」
痛みが襲い、呻きが漏れる。
思わずぎゅっと眼を瞑り、その箇所を庇うように自分の躰を抱き締めた。
そしてそっと眼を開ける。
いつの間にか床に横たわっていて、何がどうなったのかわからず、フローリングを見ながら呆然となった。
打った肩辺りから、じわじわと痛みを感じてくる。
どうやら、無意識のうちに慌てて立ち上がってしまい、躰を気遣っていなかった為にそのまま崩れ倒れてしまったようだ。
「……ああ。そう、だったな」
まだ立つ事だって侭ならない躰だった。
そんな事を一瞬でも忘れてしまう程、衝撃なものだったようだ。
確かに、己の意識は昨日の昨日まで、奥底に沈んでしまっていて。
けれど覚えているのは、何一つ無い。
本当に自分の意識では、つい一昨日くらいまではまだ普通に歩ける躰をしていたのだ。
刀も持てたし、アキラは……もう少し幼い顔をしていた。
そうだ、今更。
あれを無くしたと今更気付いたところで、もうありはしないだろうに。
それにもう、持つ資格など無いのかもしれない。
もう、何度も何度も、数え切れないほどの命を、失ってきた。
俺の心に少なからず残っている者は必ず、その命を落とすのだ。
この手によって。
母と呼べる人も、父であったものも……弟も。
そして追い求めてきた、あの男も。
全て己の手で、殺した。
だから、いつか殺してしまうのかもしれない。
俺は、お前を。
俺の傍にいれば、いつかその命を落とすのはお前だ、アキラ。
なぜ、お前はずっと俺の傍にいる?
何度も離れろ、お前の好きな所に行け、と言った筈だ。
ずっと、どうすればお前は俺から離れていくのか、考えていた。
何を思い、俺の傍などにいるのか。
このままでは、きっと俺は、その血を求めたがるというのに。
心は渦巻いていく。
殺したくない。
殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない、
殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない、殺したくない、
死なせたく、ない。
だから、離れて欲しかった。
もっと強く言い放てば良かったのか?
貴様など必要ない、と切り捨てれば良かったのか。
必要ない……なんて言える筈がない。
そう言った時の、あいつの腑抜けた顔を……傷つけ、悲しむ顔を、見たくなかった。
あんな顔をされたら、どうすればいいのかわからなくなる。
睨まれ敵意を向けられる方が、どれだけ楽か。
なのに、少しでも突き放す態度を取れば、まるで捨てられた小動物のように途方に暮れ、縋る眼を向けられる。
あの眼を見ていると、胸を締め付けられるように苦しくなって、どうしても突き放す事が出来なかった。
「シキ!?」
いきなり自分の名を呼ばれ、いつの間にか閉じていた眼を開いた。
何かを落としたような、投げたような、とにかくドタバタと慌てた物音が聞こえてくる。
「シキ、大丈夫か?」
耳元でそう言われたかと思うと、ふわり、と上体を抱き起こされた。
気遣うように背中に腕を回され抱かれ、もう片方の手が長くなっている前髪を梳いてくる。
先程までに考えていた顔が、心配そうに覗く。
その瞳を見返すと、アキラはほっと息を吐いて笑みを零した。
ふと、目の前に垂れてきた光るものに眼が行った。
まじまじと見てみると、無くしたと思っていた、あの小さな十字架だった。
……アキラが、持っていたのか。
「シキ?」
「…疲れた」
一気に躰の力が抜け、その胸に顔を埋める。
十字架が頬に当たる感触を確かめ、眼を瞑ると、風と同じような優しい匂いがふわりと漂ってきてなんだか不思議な感情に囚われた。
アキラは何を思ったのか膝裏に腕を回してきて、一瞬躰が軽くなったように感じたと同時に、この躰を持ち上げられていた。
すぐそこにアキラの顔がある。
わかっているのだが、どうにも眉間に皺が寄ってしまい、その覗き込んでくる深緑の双眸を睨み付けた。
「…何のつもりだ」
「ずっと床に寝ているわけにはいかないだろ?ベッドまで運ぶから」
「……ふん」
かなり不本意ではあるが、動けないのも確かなので、そのまま任せる事にした。
アキラは近くに置かれていたベッドまで自分を運び、ゆっくりと下ろした。
ベッドは音を立てる事もなく、躰は静かにシーツの中に沈む。
用も無くなったし、落とした荷物を拾う為に立ち上がるかと思っていたのだが、アキラはそのままフローリングに膝を付いた。
ベッドの端には肘も付き、こちらを見返してくる。
何だとあえて聞くまでも無く、何かあったようだ。
気になって少しの間互いに見つめ合っていたが、ふとアキラは苦笑し、目線を逸らした。
そしてアキラは、己の手を暖かな両手で包むように掴み、唇へと持っていった。
指に口付けられる感触がする。
そのまま唇を押し付けたまま、アキラは眼を瞑った。
「シキの手、冷たくなってる」
「元からだ」
「そうかもしれないけど」
じっとアキラの顔を眺めていると、ふと眉間に皺を寄せ、苦しそうに呟いた。
「…部屋に入って、一瞬、心臓が止まるかと思った。……シキが倒れてて。また、俺を置いて行ってしまったのかって。もしかしたら、昨日眼を覚ました事すら夢だったんじゃないかって」
……なぜ、戻ってきたりなどしたのだろう。
なぜ、そのまま眠りにつかなかったのだろう。
永遠に眼を覚まさなければ、一生傷つける恐怖を、味わわずにすんだのに。
弱さを知る恐怖よりも、この恐怖は、重く躰にのしかかる。
ただどうでもいい人間を切り捨てれば良いだけなら、それ程簡単な事はない。
それなのに、少しこの心に残るだけで、その者を失う事がとたんに恐くなる。
けれども。
眼を覚まし、この現実を見て。
こうして、今もまだアキラが自分の傍にいた事に、喜んでいる。
ずっと傍にいてくれた事に、安心している。
矛盾だらけだ。
死なせたくなくて、離れて欲しくて。
己という存在がなくなってしまえば、アキラは離れていくと思っていたのに。
まさか本当に心を閉ざせるなどという事が出来るとは、露程も思ってはいなかったが、それでもそうなればいいと思っていたのは、己自身だというのに。
「馬鹿だな…お前も……俺も」
「シキ?」
思わず失笑すると、アキラは握り口付けしていた手から顔を上げた。
怪訝な顔をして見つめてくるその双眸を、見つめ返す。
ゆっくりと握られていた手を伸ばし、すぐそこにあるアキラの頬に触れた。
暖かな、しっとりとした感触が指先から伝わってくる。
「美しくなったな。お前は」
「シキ……」
「そして、強くなった」
アキラは何度か瞬きを繰り返した後、その眼を閉じた。
頬を触れていた手の上に、アキラの手が重ねられる。
それからまた、ゆっくりと、眼を開けた。
「ああ、アンタの為になら、俺は強くなれる」
そう言って微笑したアキラの顔が、なぜかとても眩しく見えた。
本当に、随分と美しくなったものだ・・・心奪われ、見惚れる程に。
その顔も、双眸も、服の上からでもわかる肉体も、透き通った声も、落ち着いた精神も。
アキラという一つの個を形成しているもの全てが美しかった。
「…アキラ」
「ん?」
「お前を抱きたい」
アキラは何も言わなかった。
その言葉の意味を探しているのか、こちらを伺ってくる。
頬に触れていた手を持ち上げているのが疲れ、その手をアキラの頬からベッドに落とした。
それでも、眼だけはアキラから逸らさなかった。
「お前のその美しい姿を、もっと見たい。乱れ、喘ぎ、快楽に染まるお前を」
ずっと見ていたいと思った。
深く考えるのは、とりあえず今は止め、ただその目の前にある欲望に忠実でありたい。
アキラは、笑みを浮かべ頷いた。
「……ああ、いいよ。アンタが動けないから、俺が上に乗る事になるだろうけど」
「それで構わない」
「じゃあ、ちょっと待っててくれ。先に片付けてくる」
そう言ってアキラはこの頬を撫で、顔を寄せてくると、唇に唇を重ねてきた。
眼を閉じ、その感触を味わう。
そしてアキラの唇が離れていく瞬間、やはり、どこか・・・風のような匂いがした。
心地良いまどろみの中、上に乗ったアキラが何度も顔にキスを降らしてくる。
動く事が出来ない躰は、されるままになるしかないのだが、少々くすぐったい。
飛んだ精液を拭く事もせずに互いに裸体を密着させていても、それ程不快には感じなかった。
既に萎えた筈の下肢が絡まり合い、まだアキラの方は足りていないのか、また少し立ち上がり先走りが零れてきている。
体力の違いか、と瞼に落ちてきたキスを受け止めながら、漠然にそんな事を思う。
それとも中から漏れて、前にまで垂れてきているだけだろうか。
「あ……ん、ん」
アキラが腰を揺らし、細くなってしまった腹にその昂ぶり始めた男根を摺り寄せ、鼻にかかった喘ぎを漏らす。
どうしてもそれが、まるで子守唄のように聞こえ、瞼が重くなってきた。
だが流石に今寝てしまっては、勿体無いような気がする。
そういえば、先程アキラが己の上に乗り、自ら躰の中に受け入れ腰を振っていた時、目に付いたものがあった。
意識してみると、確かに触れ合った肌から、そのピアスの感触も伝わってくる。
「アキラ」
なぜ外さなかったのか、と聞こうとして、だがすぐに口を閉ざした。
聞いても仕方ない事だ……こうして、この躰の上で喘いでいる時点で。
名前を呼ばれ、けれどその後の言葉が出て来なかった事に何を思ったのか、アキラが涙で潤んだ眼でもって、不思議そうにこちらを見返してくる。
誤魔化すように、ほんのりと赤く色付いた頬を撫で、しっとりと湿った唇を辿り、首筋、鎖骨へとなぞっていく。
そして自分の胸に落ちてきている小さな十字架を手に取った。
アキラはそれを見て、声を出す。
「あ…ん、…そういえば、それ。……借りていた」
「なぜ、これを選んだ」
「……え?」
二つ付けていたうちの、この十字架を選んで、アキラは自分の首にかけた。
何か理由でもあったのだろうかとも思ったが、どうやら今の反応を見るに、意味などなかったのだろう。
少しそれを見つめると、ほんの少し、あの面影が見えた気がした。
十字架から手を離し、アキラへと眼を向ける。
「いや何でもない。そのままお前が持っておけ。俺には……それを持つ資格は、もうない」
「シキ……」
名を呼んだその声が、なんとなく悲しく聞こえた。
それでいてその眼は、美しく強く、射抜くように見つめてくる。
アキラはそっと湿った音を鳴らせながら唇に口付けをし、そのまま顔を覗き込んできた。
「今は聞かない。けれど、いつか……俺に話してくれ。シキが話したくなったらで良いから」
「……ああ」
頷くと、アキラはふわりと笑みを浮かべた。
それがまるで、母なるもののように見えた。
懐かしい記憶は、いつしか、塗り替えられていくのだ、と。
不思議とそう、すんなり心の奥にまで、受け入れられた。
...end.
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シキは、その内では複雑な事を考えているといいなぁ。
2005.10.23
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