雨のち晴れ
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雨が降っていた。
しとしとと、闇夜の中で筋の見えない細い雨が、少しずつ、そして確実に全身の体温を奪っていく。
トシマの廃れた街並みは、夜や雨というものがよく似合っていた。
夜は血を隠し、雨は血を消し去る。
汚れたものを全て覆い、誤魔化す。
しかし今は、それさえも鬱陶しかった。
「…チッ」
シキは苛立たしげに舌打ちをした。
全身が濡れて、服が肌に纏わりついているのが不快で仕方が無い。
だが表情が険しくなるそもそもの原因は、相変わらずナノ本人を見つけられず、形跡ばかりが残されているからだ。
闇が、あの者の肉体を覆い隠す。
結果、憎悪に苛まれながらも道端に置かれていたトランクケースを引っ掴み、こうしていつものように悪趣味な館に足を運んでいる状況。
そしてあんな下劣な場所に行かなければならないという現状がまた、苛立ちを増幅させる。
いっその事、あの腹立たしい仮面の男を切り刻んでやろうか。
そう内心で毒づきながら歩みを進めていけば、夜中にも関わらず街中を徘徊していた連中が、こちらを見た瞬間にたじろいだ。
そして毎度の事ながら「シキだ!」と叫び、辺りが俄かに騒がしくなる。
が、ハイエナの如く、惑う雑魚共の耳障りな声はすぐに遠ざかっていった。
刀を抜いて殺してしまえば、少しは苛立ちも消えたかもしれない。
だが、ケースを持っている状態で剣を振るうのはなかなか至難の業だ。
全く、今日は厄日か。
また舌打ちをし、ぐっさりと眉間に皺を寄せていると、雨の中から聞こえてくる音があった。
雨をばしゃばしゃと跳ねさせながら、走っている足音。
こちらに近づいてくる気配は一つ。
前方からだ。
シキは刀に手を掛けた。
あれだけ雑魚共が騒いでいてわざわざ近づいてくるのだから、ライン中毒者だろう。
間合いの位置まで来るならば、即刻殺してやろうと刀を抜きかける。
だが闇から現れた人物は、こちらの姿を見つけると軽く眼を見開いた。
その眼には、しっかりとした輝きがある。
そして逃げるどころか、余計に近付いてきた。
間合いに入られても、シキは刀を抜けなかった。
彼は目の前で足を止め、ニコリと微笑んでくる。
「こんばんは。以前お会いしましたよね。俺、貴方にまた会えないかなぁって思ってたから、凄く嬉しいです」
「お前は…」
屈託無く笑み浮かべる人物に、眼を眇める。
彼が言う通り、以前に会った事があった。
壊れたビルの中で眠っていたら隣に座ってきて、眼を開けたら話し掛けられ、そのままどうした事かソリドを貰ったのだ。
たった数日前の事である。
トシマには似合わない男だと思ったが、今もやはり似合うようには見えない。
重苦しい雨の夜とは正反対な、朗らかで明るい男だ。
茶色の双眸が、柔らかな色彩をしている。
彼は笑みを少しだけ崩し、苦笑を作る。
「こんな所で一人歩いていたら、危ないですよ?」
「危ない?」
「さっき、この辺りでシキって言う怖い人が出たみたいなんです。ですから俺も、早く友達の所に戻ろうと思って」
なるほどと、思わず失笑が漏れていった。
目の前の男は、未だにシキという人物の容姿を知らないらしい。
それは面白しろい程に希少価値のある者だった。
シキは刀から手を引き、彼に向き直った。
自分と同じように全身を雨で濡らし、しかしそれでも纏う雰囲気は明るい。
理由など明確。
この者からは一切の血の臭いがしないからだ。
闇や雨によって誤魔化すものなど、初めから持っていないから。
だからこそ、このような時間にこのような場所を出歩いているのが不自然に感じる男でもある。
「貴様は何故、こんな夜中に一人で出歩いている?」
「え? ああ。タグを毛布に替えに行っていたんです」
「そのデカイ荷物か」
彼の手に持っている大きな袋に、毛布が入っているようだ。
彼はそれを抱え直し、頷く。
「はい。友達のお使いですけど。タグも、友達のものです」
「そうだろうな」
「俺、こんな事にしか役に立たないから」
クッと喉を震わせれば、男も気の抜けた笑みを零した。
何処までも殺し合いが出来そうにない男だ。
確か、トシマにいる理由すら、友人を追ってきたというものだったか。
「ならば早く行くと良い。ここは物騒だからな。それに、躰が冷える」
「そうですね。それで、……あの」
「なんだ?」
唐突に歯切れを悪くした男に、シキは軽く眉を寄せた。
視線をあちこちに彷徨わせ、そして意を決したように、こちらをまた見てくる。
「良ければ貴方も一緒に行きませんか?俺達の溜まり場は結構暖かいですし。俺、貴方ともっと話がしたいから」
発せられた言葉に、虚を衝かれた。
今度はシキが歯切れを悪くする。
まさか自分にそんな言葉を掛けてくるとは思わなかったのだ。
が、当然ながら答えは決まっている。
「いや、遠慮しておこう。俺にはこれから行かなければならない所がある」
「そう、ですか。…あ! せめて名前だけでも。俺はケイスケって言います」
ああ、そういえば名を知らなかった。
そうか、ケイスケという名なのか。
自分が他者を殺さないどころか、名前を覚えておこうと思える事がいかに珍しいか、当然ながらケイスケは知らないだろう。
シキはニイッと笑みを浮かべ、ケイスケを見返す。
「一つ、良い事を教えてやる。全身黒尽くめで刀を持ち、血のように赤い眼をしている。それが、――シキという者の容姿だ」
「………ぇ?」
ポカンと呆気に取られた表情をしたケイスケに、シキは心底面白いと喉を鳴らした。
そのまま、え、え? と混乱している男の横を通り過ぎ、闇の中を歩いていく。
最悪だった機嫌は、雨に流されたのか今はすっかり消え失せていた。
次に遭遇した時、どんな反応をされるのか。
それが今から非常に楽しみでならなかった。
「――…そう、思っていたのだがな」
喉の奥からクツリと嘲笑が漏れた。
辺りには、血の臭いが充満している。
大雨がコンクリートを打つように降っているにも関わらず、纏わりつくような血の臭いは消えそうにない。
いくつもの死体が転がり、それらからは今なお血が流れていた。
そして、血塗られたナイフを手に持ち、死体に囲まれるように佇んでいる眼前の男は……単なるライン中毒者だった。
ニコルプルミエの血を飲んだ、シキが嫌悪する存在。
だが。
「…馬鹿が」
あの柔らかな笑顔が、一瞬だけ脳裏を過ぎった。
しかし顔を上げ、こちらを見てきた茶色の双眸は酷く濁っている。
くだらない人間に成り下がってしまったのだ、こいつも。
虫一匹すら殺せそうになかった優男が、人を殺す事しか脳のない、この自分と同じような人間になってしまった。
「ケイスケ、だったか?」
「?……あぁ、アンタか…」
「今の貴様にアンタなどと気安く呼ばれる筋合いは無い」
「ははは、冷たいなぁ。前は、あーんなに優しかったのに。なぁ、シキさん?」
スラリと、シキは刀を抜いた。
ケイスケも薄ら笑いを浮かべたまま、血に濡らした手でナイフを強く握り直す。
刀を抜き、殺し合う姿勢を見せたのは自分から。
しかしそれに答える男に、不快を露わにせずにはいられない。
すぐに動いたのは、相手の方であった。
強い雨の中を、迷う事なく突進してくる。
そして突き出された剣先には、微塵の迷いもない。
既に殺す事に慣れてしまっている手は、的確にこちらの心臓を狙ってきていた。
シキはそれを、銀の刃で防ぐ。
ガキンッと、響き渡る金属音。
止めたナイフを凪ぎ、バランスが崩れた肩へと刀を下ろす。
それをナイフで止められ、こちらの懐に入ってこようとする躰。
向こうがリーチの短い武器を使い、シキが長いものを使っている為、近づかれ過ぎてはこちらが不利となる。
だがつまりは、懐に入られなければ良いだけの事。
シキはケイスケの胴体を蹴りつけ、己から一歩後退し、刀を構え直した。
そしてすぐさま剣を振い、彼を遠ざける。
ガキンッ、ガキンッ。
「っ…く」
刀をナイフで防ぎ、しかしシキのスピードに付いていけず、辛うじて受け止めている様子。
ケイスケは押されている事に苛立ちの表情を浮かべた。
それでもシキは、容赦無くどんどんと剣撃を繰り返していく。
「ほら、どうしたっ?手元が覚束無くなっているぞ?」
「ぐっ!」
がくり、と。
彼の体勢はすぐに崩れ、重い太刀筋に耐え切れずナイフがコンクリートに落ちていった。
手と膝を地面に付き、完全な隙が出来る。
シキは刀を下ろした。
真っ直ぐに、ケイスケの首に向かって。
目先に迫る刃に、彼の眼がカッと大きく見開かれる。
そのまま振り下ろせば、確実に殺していた。
―――しかし。
「っ……」
刃は止まっていた。
彼に触れる、紙一重前で。
無意識下だったのかもしれない。
本当に殺すつもりでいたのだから。
それでも、心の何処かで思ってしまっていたのだろうか?
コイツを斬りたくはないと。
ああ、認めたくなかったけれども、わかっていた。
出会った時から惹かれていたのだと。
この都市に全く似合わない男だった。
けれど彼の笑顔と直向な言葉に、耳を傾けずにはいられなかったのだ。
自分が昔捨てた純粋さを、全て持っていたから。
そして遠い昔に弟に与えていた愛情や、生きるという意味を、一時でも思い出させてくれた。
だがよもや、今になって自分が誰かを斬りたくないなどという感情を持つとは、滑稽でしかない。
今まで大量の人間を殺しておいて、今更何を血迷っている?
まるで時間が止まったように、互いの眼が交差し合う。
その中で、雨の音だけが永遠と続くように感じた。
だがそんなものは所詮、一人よがりでしかない。
「ッぁ!?がはっ」
気付いた時にはガッと首を掴まれ、コンクリートに倒されていた。
しとどと降る雨の中に背を打ち付け、バシャンと飛沫が上がり、落ちる。
辛うじて頭まで打つ事は無かったが、腹の上に思いっきり乗り掛かられ、首を強く締められる。
「ぅ…っ、――ァっ…」
「なぁに、やってるんだ?敵前で思考停止なんてダサいよなぁ…。殺してくれって言ってるようなもんだぜ」
互いの唇が付く程間近で囁かれ、しかし喉を抑え付けられて呼吸が出来無かった。
苦しい。苦しい。
…っ、くるし、い。
逃げようと躰を捩るも、ビクともしない。
刀を持つ手を振り上げようとしても、腕を地面に押し付けられる。
ぼんやりとした視界の中、狂気の眼が楽しげに細められた。
そしてすぐに見えなくなった。
躰が動かなくなり、急激に冷たくなるのを感じる。
ああ、死ぬのか。
儘ならない思考の中で、浮かんだのはそれだけだった。
けれども次の瞬間。
「…っぁ!?が、はっ…ぁ、う、げほ、げほっ」
唐突に気管に酸素が取り込まれ、シキはゴフッと咳き込んだ。
何度も咳をしながら、止められていた器官が一気に活動を再開した事によって、生理的な涙が雨に混じってぼろぼろと零れていく。
口からは涎が垂れ、やはり雨に溶け込んでいく。
仰向けだった躰を丸め、どうにかして呼吸を整えようと試みた。
暫くすれば霞がかった脳が機能を取り戻し、思考が回復する。
五感もはっきりとしてきた。
それと同時に、このような状況になった原因である人物が視界に入る。
彼もまた、自分と同じように地面に蹲っていた。
呻きを上げ、酷く苦しげな表情を浮かべている。
一体何が起こっているのか、シキはすぐに理解した。
「薬が切れたのか…」
何ともタイミングが良い。
いや、相手にしては悪いのか。
それでも、お陰で生き延びられた。
「ぅ、ああ …ライン、ラインをぉっ…ぅ、う、がぁ!」
獣のような叫びを上げて薬を求める姿に、思わず眉を顰める。
しかもケイスケは、転がっている死体の方へ這いずっていき、動かない肉を掻き毟りながら薬を探し始めた。
衝動的に、シキはケイスケの腕を力いっぱい引っ張っていた。
唐突に躰を引き離されて一瞬理解出来無かったのだろうが、すぐに思いっきり抵抗される。
自分は薬などやった事がないから、効果が切れた時の苦しみなどさっぱりわからない。
だが、だからといってこのまままた彼が薬を飲んでしまう事を、黙って見ていられなかった。
「ぁ、が、あ…離せっ、うぐっ、この…離しやがれぇ!」
「煩いぞ、雑魚が」
我武者羅に暴れる躰をずるずると引き摺り、壊れたビルの中にまで入る。
ひび割れている箇所が多いが、雨風を凌ぐ事は出来そうだ。
ガツッと、ケイスケの頭をビルの床に押し付けた。
そのまま片腕を捻り上げ、腰に乗り上げる。
完全に身動きを封じてから、シキはケイスケの耳元に唇を近付け、ゆっくりと囁いた。
「貴様が落ち着くまで、ずっとこうしててやる。この俺が、薬に逃げた弱者であるお前如きを構ってやるんだ。ありがたく思え」
「ぅ、うう、ぐぁ、…あ、ああっ!はっ、ぐ」
たった数分だけで、禁断症状は酷くなった。
もの凄い力でもがき、上にいる自分を振り落とそうとする。
「暫くだ。…暫くの、辛抱だ」
彼が正気を取り戻すべきか否か。
それはわからなかった。
もし正気を取り戻した時、きっとその手にこびり付いたまま落ちなくなってしまった血に、愕然とするだろう事の予測も出来る。
だがそれでも、こうする事への躊躇などは微塵も無かった。
瞼の裏からでもわかるくらい、妙に眩しい。
珍しい、この街に太陽が差し込んでいるのだろうか。
まさか何かの予兆か?
…いや、そんな事が天候によってわかる筈もない。
生憎と自分は、現実主義者である。
シキは夢うつつの状態でクスリと笑みを零し、ゆったりと瞼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、こちらを見てくる茶色い双眸。
「…無事か?」
上から覗き込まれている体勢だった。
自分の頭は、彼の太腿の上に置かれている。
そして、髪を梳いてくる手。
いつ眠ってしまっていたのか記憶には無かったが、見るに彼の躰からラインは抜けきったようだ。
「愚問だったな。良い眼を、している」
このビルにまで入り込んでくる日差しのように…などという比喩はくだらないかもしれないが、それくらいの眼であった。
どうやら心配は無用だったようだ。
ケイスケは、柔らかな微笑を浮かべた。
それは自分が記憶していたものよりも、遥かに大人びていた。
そして、静寂を帯びた愁いまで窺える。
「ありがとうございました、シキさん。それと申し訳ありませんでした。凄く、迷惑を掛けてしまって」
「なるほど…記憶には残っているのか。薬を使っていた間の事など、忘れているかとも思ったが」
「全部、覚えています。貴方と剣を交えたのも、傍にいてくれたのも、全部」
髪を梳かれていた手が離れていく。
そのまま、彼は自分の手をじっと見つめた。
服は、こびり付いた返り血でどす黒く変色してしまっている。
「色々と、ありました。貴方と会わなかった間に。ラインを飲んでしまおうと思うくらいの事も、ありました」
「そうか」
ああ、そうだろうとは思った。
薬に逃げるくらいなのだから、それ相応な事があった筈だ。
それに、躰を押さえている間に何度も聞いた名があった。
呻きながら、あるいは叫びながら。
そして、泣きながら。
しかし同時に出てきたものは、懺悔であった。
弱い自分を責める言葉。
何度も何度も謝罪を繰り返し、涙を零し躰を震わせながら嘔吐する。
それは口から零れる名の者へではなく、他者の命を奪ったという事実に対しての謝罪であった。
「それでも、貴方が何度も励ましてくれたから。だから俺は今、こうしていられる」
「…俺が、そんなに親切な人間だったとはな」
我ながら呆れる程の親切心だ。
だがこの男にならば、それだけの事をしても良いと感じたのだから仕方が無い。
それ程に、惹かれていたのだから。
捨て置いたならきっと、自分が気を害していた。
「まぁ、貴様が無事だったならば良い」
彼自身、ラインを飲んだのは一時の感情に流されただけであり、精神が弱すぎるわけではない。
ただ、弱さと強さが混在していた。
そのどちらも自分自身として認める事が出来る人間だった。
現に今も、彼はこうして他者の命を奪った事を受け入れ、乗り越えられている。
そうして生まれる優しさに、自分は惹かれていた。
でも、それも終わりだ。
「だいぶ躰が汚れたな」
シキはケイスケの膝から頭を上げ、上体を起し自分の現状を確認した。
濡れた服のまま眠ってしまったせいか、頭が少々重い。
それとも空が明るいせいか。
とにかく熱いシャワーを浴びて、サッパリしたい。
立ち上がり、近くに落ちていた刀を拾う。
別れの言葉など思い浮かばず、シキは何も告げぬままケイスケに背を向け、ビルから出ようとした。
が、慌てた声に制止させられる。
「シキさん!あの。何処へ、行くんですか?」
「自分の塒だ。お前も早く仲間を捜しに行け。はぐれたのだろう?」
「…貴方に付いていって良いですか?」
「………何?」
「貴方と一緒に、いたいんです」
何を馬鹿な、と思い振り返れば、とてつもなく真剣な双眸に射止められた。
こんな眼が出来る人間だったなんて、想像出来無いほどの、強さでもって。
こんな街に来たのは、友人を追ってきたからだと言っていなかったか?
ラインを飲んだのも、その者が絡んでいた筈。
それでいて自分に付いてきたいとは、一体どういう思考回路なんだ。
ぐるぐると、言いたい事が頭の中で巡る。
巡りに巡って。
結果、深い溜め息が出ていく。
「…勝手にしろ」
「――はいっ」
パァッと擬音でも聞こえてきそうな明るい笑顔と、駆け寄ってくる姿に。
シキは呆れながらも、微かに口元を緩ませていた。
...end.
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「小さな炎」の続きです。
この後、塒に帰ってシャワー浴びている時にケイスケに迫られれば良いなと思ってみたり。
2011.02.03
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