いつでも この心に 思い描く者へ…。




   ここにいる

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 そよ風が吹く。
 一面の緑の広がる、その大地に足を付け、上を見上げる。
 透き通る青空は、心が洗われるような程、爽やかだった。

 そんな青空の中に浮かぶように、長い赤い髪が靡く。
 美しい絵画のような光景。

 けれど、その一枚の絵画の中に存在しているような彼の翡翠の双眸からは、静かに涙が流れた。


 知らない事ばかりだった。
 知らな過ぎて、たくさんのものを失った。
 たくさんの命を奪った。

 それなのに、この心は、たった一人の男を描き、涙を流す。


「アッシュ…」


 無意識に、思い描いたその人の名を口にしていた。

 光の中で、自分達の躰が音素と成り果てていたその時、彼の記憶を見た。
 幼少の頃の、厳しい貴族という家庭での、それでもささやかな幸福があった事。
 彼の大切な人に対する、気持ち。

 そして、自分への憎しみ。

 まるで混沌の中に放り込まれてしまったように渦巻く憎悪は、自分へと向けられていた。
 アッシュの場所を奪ってしまった自分の存在。
 そんな事を露とも知らずのうのうと生きていた、作り物である事すら考えもしなかった、無知で傲慢な『ルーク』。

 彼は憎しみだけで生きていた。
 七年間、ずっと…ずっと、自分に対する憎しみだけで。

 心に思うだけで、苦しくて哀しくて、心臓が締め付けられるように痛くて、申し訳無くて涙が止まらない。
 そして、彼の深過ぎる憎悪に吐き気さえしてしまう。
 これ程に深く闇しか広がっていない感情を、彼は七年間もその胸に宿していた。


 憎まない筈が無いのだ、彼の大切なもの全てを奪ったのだから。
 憎んで当然、そして憎まれて当然。


「どこにいるんだよ、アッシュ…俺は、ここにいるんだぜ?」


 流れる涙が頬から顎へと伝い、ぽたりと服へと落ちた。
 ルークは、それを拭こうとはせず、ただ青空を見上げていた。

 もう一度この地で目覚めたあの時、アッシュはどこにもいなかった。
 自分が生きているのだから、オリジナルの彼がいないはずが無いのに、それでもどこにもいない。
 彼はまだ…レプリカである自分を憎んでいるのだろう。
 共にいたくないから、彼は消えたのだ。

 そう、それが当然。
 憎まれて当然。

 けれど、なぜ自分が、いまだ陽だまりに存在しているのだろうか。
 その場所を、いまだ奪い続けているのか。


「…なぁ、返って来いよ『ルーク』」


 奪い返せば良い。
 いくらでも罵って、殴って、そして今度はお前が、奪えば良い。
 場所も、名前も、家族も友人達も。
 それくらい、甘んじて受け入れよう。



 ルークは不意に俯き、流れる涙を服の袖で拭いた。
 そして、顔を上げ後ろを振り返る。

 少し遠い所に、こちらに歩いてくる幼馴染達の姿があった。
 ガイとナタリアは、振り向いたルークへと手を振ってくる。


「ルーク!そろそろ戻りましてよ!」
「ああ、今行く!!」


 何事も無かったように、涙すら残さない笑みをルークは浮かべた。
 さくさくと青葉を踏みしめ、二人の所へと歩いていく。
 辿り着くと、ガイに肩をポンと軽く叩かれた。


「休憩は出来たか?そろそろバチカルに戻らないと、公爵も奥様も心配するぞ」
「そうですわ。お土産もたーんと買いましたし!早く帰りましょう」


 そう言ってナタリアが近くに止めてある馬車へと指差した。
 ナタリア専用に用意された馬車の中には、グランコクマまでの長旅の途中に立ち寄った、色んな店で買った土産が積んである。

 ルークはそうだな、と頷き、笑顔を見せた。
 その笑顔の翳りが見えている事を、二人は気付きながらも、あえて指摘しなかった。





 …それでも、自分は彼に認めてほしいと思ってしまうのだ。

 ルークとして。
 一人の人間として。


 存在しているのだと。

 ここに、いると。























 それから二ヶ月が経った。
 ルークが皆と再会し、屋敷に戻ってきてからもうすぐ三ヶ月となる。

 普段は部屋で国政に必要な政治や経済情勢を勉強しながら、時々父の手伝いとして書類の整理をしたり記入をする日々。
 初めはルークの本当の息子ではないという思い、そして父の方も予言によってルークを殺そうとした負い目があり、互いに戸惑っていた。
 だが母の助力もあって、今は上手い関係を築いている。
 仕事も、少しずつではあるが任されるようになっていた。


「あー…疲れた」


 部屋にいたルークは、両手を上げ、ぐっと躰を伸ばした。

 ずっと座りっぱなしで書物に眼を通していたのだ。
 もっと仕事が出来るようになる為にと、ちんぷんかんぷんな語はちゃんと辞書で調べながら、一人勉強をしていた。

 それも長く続く訳ではなく、やはりこうしてすぐに疲れて本から眼を逸らしてしまう。
 自分はどう頑張ったって、書物を読むよりも、剣を握る方が好きなのだ。


 ルークは椅子から立ち上がり、テーブルの上に置いてあった剣を手に取った。
 自室を出れば、陽の眩しさにそっと眼を眇める。

 もうすぐ西の空が赤くなろうとしている時間帯。
 それでもまだ太陽は輝かしい光を放っていて、薄い色の青に淡い透き通った雲が時々掛かっている空は、美しい色合いだった。

 だが、視線を空から下へと持っていけば。

 眼の前には相変わらず静かで小さい箱のような中庭が広がっている。
 何も知らなかった以前とは違って、沢山の花が植えられ、華やかで美しいと感じるけれども。
 しかし、とても哀しい…庭。

 ここにいて、そしてこの庭を見るといつも思い出す。
 彼がここにいない事。

 『ルーク』が、いない事。

 どう頑張ったところで、自分は彼にはなれないのだ。
 どれだけ勉強しても、父と母の役に立っても、執事や騎士団やメイド達と声を交わしても。

 本来ここにいるのは、自分では無い筈だと思ってしまう。
 屋敷に居る者達が望んでいたのは、自分では無いんじゃないかとさえ感じる。
 皆、笑顔で俺を見てくれているけれど。

 ここにいるのは、人ですらないくせに、多くの命を奪った愚かな人形。

 そして主を失った庭は、とても哀しい。


「…止め止め。こんな事考えてても仕方ねぇじゃん」


 ルークはやはり哀しげに笑みを浮かべつつも、首を横に振った。
 考えたところで、『ルーク』は戻ってこない。

 何度心の奥底で彼を思い、呼びかけても返事は聞こえないし、どれだけ捜しに行きたくても、自分はアッシュに嫌われている。
 もし捜しに行って、会っても…もしかしたらそれがまた迷惑がられてしまう可能性だってあるのだ。

 ただ、これだけはわかる。
 彼は、生きていると。

 今はまだ、それだけで十分だった。


 持っていた剣の柄をぐっと握り締め、鞘から抜く。
 すらりと現れた刃は、一点の曇りも無く銀色に輝いていた。
 眼前へと突き刺すように剣を持ち上げ、つと庭の方へ伸ばす。

 何も無い虚空、けれどもまるで何かがあるかのようにルークはきつく睨み付けた。
 その先へと斬りつけ、薙ぎ払い、剣技を放つ。
 静かだった庭はいきなり強い風が吹き上がり、庭に咲く白い花びらがぶわっと宙を舞った。

 剣を構えたまま、トンと足を一歩後ろへと下げ、ふぅと大きく息を吐く。
 そしてまた一振り、空を切ろうとしたその時。


「…え……?」


 有り得無い筈の音が聞こえた。
 ガキン、と剣がぶつかり合う音。
 突然伝わってきた剣の重さに、握り締めていた柄を離してしまう。
 地面に落ちカシャンと弾かれ、花壇の方まで滑っていく剣。

 けれどもルークの視線は、眼の前を見つめたまま、動かなかった。


「何だ、剣先が鈍ってるんじゃねぇか?」


 声が、聞こえた。
 自分と同じ音をした声。

 そして舞い散る花びらの向こうに見えた、紅は。


「…アッ、シュ?」
「随分と腑抜けた顔だな」


 ずっと、待ち望んでいた色だった。
 それがすぐそこの、手が届くような位置にある。

 思わず目の前の人間に向かって手を伸ばした。
 アッシュはくつりと笑みを浮かべながらも、ルークの手に触れてきた。
 ルークは触れてきた手を確めるようにゆるく握り、存在を確かめる。


「あったかい」
「…生きているからな」


 どうしたものかと思ったのか、アッシュは困った顔を浮かべた。

 帰ってきた。
 帰ってきたのだ、待ち望んだ人が。

 夢かと一瞬思いもしたけれど、確かにこの手で触れる。


 しかしどういうわけか、本当の主が帰ってきたというのに屋敷にいる筈の母上もガイも、働いているメイド達も誰もこの中庭にやってこない。
 それが、自分が出て行かなければならないのかという意識に拍車をかける。
 自分がいては、彼女達も素直に喜ぶ事が出来無いから。

 ルークは、ふと哀しげに笑みを浮かべる。
 ようやく奪いに来たのかよ、と。
 笑って言いたかったけれど、言葉に出来無くて。

 その代わり、ただ静かに呟いた。


「アッシュ。いや、『ルーク』…って、呼んだ方が良いのかな」


 触れているアッシュの手を見たままだった。
 アッシュの顔を見る事が出来無いでいる。

 あれだけ覚悟を決めて、そして帰ってきてほしいと願った筈なのに。
 いざこうやって彼が帰ってくると、自分の行き場が無い事が怖くなってきた。
 この先、自分は何処に行けば良いだろうかと、途方に暮れる。

 アッシュが溜め息を吐いた。
 どんな顔をしているのだろうと思っても、顔が上げられない。

 自分で疑問を口にしたくせに、解答を聞きたくないだなんて、笑ってしまう。
 だが次のアッシュの言葉に。


「『ルーク』はお前だろう…俺は『アッシュ』だ。それ以外の何者でもない」


 ルークは驚き、思わず顔を上げた。
 アッシュは眉間に皺を寄せて、それでも真っ直ぐに自分を見ている。


「で、でも。俺はレプリカで、オリジナルはお前で」
「だから何だ」


 慌てて早口で捲くし立てるように言葉を繋げたルークを一掃するアッシュに、ルークは絶句した。
 だから何だって、アッシュからそんな返し方をするなんて今までは考えられなかった。
 自分の知っているアッシュは、もっと自分を卑下していた筈だ。
 もっともっと憎しみをぶつけてきた筈だ。

 そんな風に、笑って返されるなんて思いもしなかった。


「またレプリカだからと卑屈を並べる気か?折角俺が、お前を認めてやっても良いと思ったのに。その為に帰ってきたのに」


 しかもその笑顔も、今まで見た事がないくらいに、優しい。
 思わず見惚れそうになり、しかしアッシュ表情はまたすぐに変わった。


「いや、違うな。俺が、お前に認められたかったんだ」
「…え?」


 苦しげに、自嘲するアッシュ。
 そんな彼に同調するように、ルークもまた苦しげな表情を浮かべてアッシュを見返した。
 互いに戸惑い、逡巡し。
 アッシュの見つめる方向へと、ルークも視線を移す。

 先程風で舞った花びらは、自分達の足元に散っていた。
 この肌寒い季節に咲く、白い花。
 その花はこの時期に散る花だった。

 二人で白い花を見つめていると、先にアッシュが言葉を紡いだ。


「ずっとお前を認められなかったのは、俺が弱かったからだ。お前を憎む心が消えていくと、何も残らなくて。…ふ、笑っちまうだろう?憎しみ以外何も無かっただなんて。それくらいに、俺は愚かだった」


 静かに。
 静かに。
 散る花の如く。


「この三ヶ月、お前を忘れた事は無かった。俺は、お前がいるから、俺でいられる。アッシュという名の男として、ここにいられる」


 そして、それでもまだ美しく力強く咲き誇るかのように。



「ルーク。お前に、俺を認めてほしい」



 強い眼差しで見つめてきたアッシュに、ルークは顔をアッシュへ向けたままそっと眼を瞑った。

 とても重い言葉だった。
 アッシュをアッシュとして認める事。
 それは同時に…自分を、ルークとして認める事だった。


 自分はレプリカだからと諦めていた反面、認めてほしいと願っていた。
 一人の人間という存在として、ここにいる事を。
 ルークという存在である自分を。

 だが、認めてほしいと願うだけでは駄目なのだ。
 願うだけでは、叶う筈がない。
 まず何よりも最初に、自分が自分を認めなければならない。

 自己を認識しなければ、他者を他者であると認める事など出来無いのだ。

 きっとアッシュは認めてきたのだろう、そして自分の前へと帰ってきたのだろう。
 自分はアッシュだからと…その答えを見つけたのだろう。

 三ヶ月間の間、ルークはアッシュに憎まれているとその事ばかり思っていた。
 けれどもそんな事すら、今の彼にとっては小さいものでしかないのかもしれない。

 自分は、どうだろう?
 認められるだろうか。
 自分はルークだと。

 それは、一生彼の場所を奪ったままである気もする。


「アッシュ、俺は」


 すっと開けた眼の先には、やはり自分を見つめるアッシュがいた。
 真っ直ぐに自分を見つめてくる双眸は、とても自信に満ちていて。

 ルークもまた、ニッと笑みを浮かべた。
 アッシュに負けないくらいの自信と、名への誇りを持って。


「俺は、『ルーク』だ」
「ああ。知っている」


 しかしこれまた自信たっぷりでアッシュに言葉を返され。
 しばらく見合っていた自分達は、二人同時にぶっと吹き出した。


「なんだよそれ!すっげぇ変なの!知ってるって、知ってるってさ。そんな自信持って言われると…あはは!」
「そういうお前こそ…くくっ、そこまで威張られると、清々しいな」
「ははっ。今更、返すのも変な気がしたんだよ。アッシュを見てたらさ。あー、腹痛い」
「笑い過ぎだ、屑が」
「そういうアッシュだって」


 二人でまた笑って。
 そうして、庭を眺めた。

 今は白い花が多い庭だけれど、先程までは哀しい庭だと思っていた筈なのに、アッシュが隣にいるだけで、全然違って見える。
 綺麗だと、ただそれだけを素直に思えた。
 こうして二人で並んで庭に立つ事なんて初めての事で、ムズ痒い気もするけれども、それよりもむしろじわりと滲みそうになったものに慌てて誤魔化すように、ルークは明るい口調で喋った。


「なんか、今ようやく…お前が帰ってきたんだなって、実感したよ。…お帰り、『アッシュ』」


 笑顔で言った筈なのに、やっぱり少しだけ涙が滲んでしまった。
 すると何故かアッシュは凄く驚いたような顔をして、ルークから視線を外した。

 何か不味い事でも言ってしまっただろうか、もしかして泣いてしまったのがいけなかったか。
 それともやはり…何処か認められない部分があるのだろうかと、哀しくなってしまったけれど。

 どうしようかと俯くと同時に、いきなり腕を引っ張られた。
 唐突の事に、声を出す暇も無く、ふわりと抱き締められた事に気付く。
 そして。


「ここに、いろ」


 耳元から聞こえたアッシュの声も、少し濡れているようだった。

 きっと自分と同じなのだ。
 同じように不安になったり、悩んでいたりしたんだ。
 お互いに…自分と、そして相手を認める事に必死だった。

 アッシュの背へと腕を伸ばし抱き締め返せば、今以上の力が抱かれている腕に込められる。
 ルークはそのままアッシュの肩口に顔をうずめた。


 感じる暖かなぬくもりは、確かにここにあるから。



「俺は、ここにいるよ。アッシュの傍にいる」
「ああ……ただいま、『ルーク』」




 次の季節には、この庭は色とりどりの花でいっぱいになるだろう。

 もっともっと賑やかな庭となるだろう。



 ―――力強く、美しく…息づくのだろう。





  ...end.

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「美しき世界」でのルークの回想と、「一人分の光」でのアッシュの独白箇所のシーン。
実はアビスに嵌った時に一番最初に浮かんだのが、
アッシュがルークの元へ帰ってくるというこの場面でした。

2007.04.10
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