貴方の声

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 森田は酒を口に含みながら、ぼんやりと辺りを見渡した。
 客の出入りはそれなりに激しいが、洒落た店内で暴れるような無粋な客はいない。
 バーテンダーは忙しくシェイカーを振り、フロマネは笑みを浮かべながらも常に店内を見渡している。
 そして気まぐれのように、時折ピアノの演奏が流れてくる。

 いつもと変わらない光景だ。

 けれど、いつもと違った光景が一つだけあった。
 目の前にいる、銀二である。
 もちろん酒は普通に飲んでいるし、安田や船田、巽との会話もいつも通り。

 違うのは、自分に向けてくる視線だった。

 銀二は先程から、ほとんどこちらを見ていない。
 たまに眼が合っても、何も無かったかのようにすぐに離れていってしまう。




「喧嘩でもしたのか?」


 店を出る間際、ドアの前で安田がこっそりと聞いてきた。
 後ろにいた巽も同じように自分を見てくるので、森田は思わず苦笑を零す。

 やはり彼等には、銀二がいつもと違う事がわかっていたらしい。
 実は店に入る前に、船田にも同じ事を聞かれていた。


「いいえ、喧嘩はしていませんよ」
「銀さんも同じ事を言っていたが」


 そうか、銀さんにももう聞いた後だったのか。
 それで銀二はあまりはっきりした回答をしなかったのだろう。
 正直、自分もあまり言いたくはなかった。
 
 だが船田にはもう答えてしまった事だし、彼らにずっと心配されるのも申し訳無い。


「……少し、賭けをしているんです」
「内容は」


 巽が続きを促す。
 銀二は既に船田と店を出て、先に行ってしまっていた。


「とりあえず、俺達も行きませんか?」


 店のドアを閉めないまま喋るのは、酷く失礼だ。
 それに冬の季節である今、外気はとても冷たい。

 外に出ると、やはり肌が痛くなるほど寒かった。


「あ、ちょっと店の前で待っていてくれ」


 歩こうとしたところを、安田に止められる。
 どうしたのかと問う前に、彼は先を行く二人の方へと走っていった。

 何かを話し、そしてすぐに戻ってくる。


「銀さんに森田を借りたいと頼んできた」
「え」
「そうか。なら久しぶりに、公園で缶コーヒーを飲むというのも良いかもな」


 安田の言葉に、巽が更なる提案を上げてくる。
 いやまぁ、賭けをしている現状で銀二と二人きりになるのはつらいので、構わないのだが。

 しかし彼と共に住む部屋でのんびりしたいという気持ちもあった為、少々残念である。

 結局近くにあった広場のベンチに男三人で座り、話す事となった。
 ああ、手の中にある缶コーヒーの暖かさが、この寒さにはありがたい。


「それで?」
「賭け、というか簡単なゲームですね。互いの名前を呼ばない事。もちろんそれらに相当する代名詞も駄目です」


 二人の眉間に皺が寄る。


「その程度の事で、なんであそこまで銀さんは不機嫌なんだ?」
「俺が音を上げないからじゃないですか?お互いの名前を呼ばないとなると、会話もだいぶ減ってしまいまして。まぁ仕草だけでも、それなりにはわかるんですけどね」


 本当は、銀二は不機嫌なわけじゃない。
 ただ困惑しているのだ。
 もちろん安田も巽もそんな事はとうにわかっているはずだが、あえて不機嫌だと表現している。
 銀二が困惑だなんて、わかっていてもあまり想像出来無いのである。


「そうか。遊びならそれで構わないが……早めにどうにかする事だな。あんな切れの無い銀さんを他の連中に見せるとなると、ちょいと仕事に支障をきたそうだ」
「そうですね。努力はしているのですが」


 それ以上は言えなかった。
 困惑しているのは、俺も同じだ。

 それさえも彼等にはわかったようで、俺の背中を軽く叩いてくる。
 頑張れよ、との事らしい。







 そもそもの事の発端は今朝。


「森田、賭けをしてみねぇか?」


 確か銀二のその一言だった。
 賭け事は好きだったので、まぁいいか、と俺は頷いた。

 そして出された条件が、互いの名前を言わない事。
 負けた方がひとつだけ、なんでも言う事を聞く。

 そうして賭けを始めたわけなのだが、一時間過ぎたあたりから、互いに会話が出来無くなってしまっていた。
 名前を呼ばない、代名詞も駄目。
 かなりきつい勝負なのだと、その時になって初めて気付く。

 それでも森田は、必死になって銀二を呼ばないように注意した。

 別に何か頼みたい事があったわけじゃない。
 ただ些細な勝負でも良いから、銀二に勝ってみたかったのだ。

 そんなこんなで、もう十二時間以上…半日以上が過ぎてしまっている。
 普段森田に何かあれば銀二がフォローを入れたり宥めたりしてくれるのだが、これが銀二から言い出した賭け事のせいか、時折こちらの様子を伺ってくるだけなのだ。
 会話も時たま、ぎこちなく一言二言交わすだけ。

 正直、自分でもどうすれば良いのかわからなくなってしまっていた。







 安田や巽と別れて、森田は一人夜道を歩いた。
 コートのポケットに、冷たくなってしまった両手を突っ込む。
 マフラーをしていたから、首や頬は辛うじて暖かかった。

 洒落た街灯や、イルミネーションを施された街樹。
 色とりどりのネオンランプ、その下でたむろする若者達。

 明るいはずなのに、普段よりも沈んでいるように見えるのは気のせいだろうか。

 そのまま歩いて、ふらりとコンビニに寄ったのは何かの気まぐれだった。
 寒かったからかもしれない。
 ガラス越しから溢れるように漏れている光に、惹かれたせいかもしれない。

 アルバイトらしい定員が一人と、寒さを逃れる為か、ただ店内を見ている女性が一人。
 せっかく中に入ったのだし何か買おうかと店内をうろうろ迷ってから、結局定員に肉まんとピザまんを二つずつ頼んだ。
 千円札を一枚出して、袋とお釣りを受け取る。

 外に出ると、先ほどコンビニの中にいた女性が、同い年くらいの男と楽しそうに話しているのが見えた。
 待ち合わせだったのかと、ぼんやりその光景を眺める。

 やがて彼等の笑い声が聞こえなくなると、俺はゆっくりと歩き出した。

 暖をとるように、袋を右手に抱える。
 銀さんと一緒に食べようか。

 そう思って、すぐに考え直した。


「ああ、そうか。賭けの途中だった」


 すっかり忘れていた自分に、苦笑が漏れる。
 どうやら自分で気付かなかっただけで、相当参っていたようだ。


「………銀さん」


 ぽつりと呟く。
 声は擦れて、殆ど音にならなかった。
 けれどその名の人物に想いを馳せるには、十分である。

 まだ一日も経っていないのに、もう何日も彼の事を呼んでいない気がする。
 それくらい、自分にとって銀二の存在は大きい。

 あまりにも特別で、特別過ぎて。

 少しだけ、涙が滲む。


「…銀さん」


 今度ははっきりと口にしてみた。
 大好きな人の名前を。


「銀さん、銀さん。―――銀さん」


 だが何度呼んでも、同じ事だった。
 返事をしてくれる人は今、自分の目の前にはいない。
 彼には届かず、冷たい空気に溶けていってしまう。

 ぽろり、ぽろり。

 涙が零れた。

 どうしてこんなにも切なくなってしまうのかと考えて、考えて。
 ああそうかと、答えに至る。

 名前を呼んでも、呼び返してくれる声が無いのだ。
 銀二に名前を呼んでもらえる事は、彼が自分をきちんと認識してくれているという事。
 そんな些細な事が、どれほどに嬉しいか。

 どうか俺に答えて、俺の名前を呼んでほしい。
 貴方の声で、俺の名前を呼んでほしい。

 それが、俺が貴方の隣にいて良い証拠なのだと。

 そう、思うから。


「……銀さん」


 呼んだ声は、車道を通りすぎた車の音に、呆気無く掻き消されていった。















 結局マンションに着いたのは、深夜だった。
 店の前で別れてから、もう二時間も経っている。
 きっともう銀二は眠っているだろう。
 そう思ったから、帰ってきた。

 今銀二に会ったら、顔を見られてしまう。
 たかだか名前を呼ぶ呼ばないというだけで哀しくなって、涙が止まらなくてぐしゃぐしゃになってしまった顔なんて。
 みっともなくて情けなくて、見せられたもんじゃない。

 音を立てないようにドアの鍵を開けて、そうっと開けてみる。
 真っ暗だ。
 やはりもう眠っているのだという事がわかって、ほぅと息が出て行く。

 中に入り、靴を脱いで。
 買っていたコンビニの袋をダイニングテーブルに置いた。

 だが、その瞬間。

 ぱっと電気が付いて、森田はコンビニ袋を置いたままの格好で、ギクリと固まった。


「遅かったな」
「ぅ、ぁ……。ぎ、……」


 ああまだ起きていたんですねと、さらりと言えれば良かったのに、声が出てこない。
 名前を呼びそうになって、慌てて口を紡いで。

 泣き顔はばっちり見られてしまうし、隠す為に俯けば呆れたような溜め息が聞こえてくるしで、やりきれなくなってしまう。
 しかもそのまま、互いに無言だ。

 もう、どうすれば良いのかわからない。


「………」
「……………」
「……。…まぁ、早く寝ろよ」


 かなりの長い沈黙の後、ぽつりと掛けられた言葉に、森田はのろのろと顔を上げた。
 銀二は森田に背を向け、ダイニングから出て行こうとしている。

 銀さんに勝ってみたいと思っていた。
 けれどこのまま寝てしまったら、明日もまた気まずくなってしまう。

 そんなのは嫌だ。

 絶対に、嫌だ。

 もし今、自分が名前を呼んだら、銀二は返してくれるだろうか。
 その声で呼んでもらえるのだろうか。

 貴方の声で、俺の名を。


「っ………銀さん!!」


 どうか


「銀さん、俺っ…。俺……」


 俺の名前を、呼んで。




「んな事で泣いてんじゃねぇよ、森田」
「ぎ、銀さん…」


 ぐずりと鼻を鳴らしながら呟けば、銀二はこちらを振り返ってくれた。
 そして涙を流す森田の目元に、指を伸ばす。
 やっぱり呆れた様子だったけれど、返された銀二の声に嬉しくて、涙を拭ってくれる指が嬉しくて、俺は泣きながら笑っていた。


「……器用な奴だな」
「へへ…」
「全く。こんな寒い日に、何時間も外にいる馬鹿がいるか」
「ごめんなさい」


 謝ったら、銀二が抱き締めてくれた。
 そして頭を撫でてくれる。
 甘えてしまうのを承知で、森田は銀二の首筋に顔を埋めた。


「躰、冷てぇな」
「銀さんはあったかいです」
「そりゃあ、今のお前に比べればな」
「…銀さん」
「なんだ?」
「願い事」
「……ああ、そうか。忘れてた」
「忘れてたって…」


 もしかして、銀二も別に何か頼みたい事があったわけではないのだろうか。
 でも、だとしたらどうしてあんな賭け事を持ちかけてきたのだろう?

 疑問に思っていると、銀二は相変わらず森田の頭を撫でたまま、クックッと喉を鳴らして笑い始めた。


「まさかお前があんなに悩むとはなぁ。俺としては、一時間くらいでうっかり呼ぶかと思っていたんだが。ま、お前が呼ばないように悪戦苦闘している姿を見るのは、良い暇つぶしにはなったぜ」
「……銀さん、それ滅茶苦茶酷いです」
「俺だってお前が折れねぇから多少は悩んだんだ。あいこだろ」
「そうかもしれないですけど」


 ああ、自分はただ彼の掌の上で踊らされていただけだったらしい。
 やはりこの人には、何をしても敵わないのか。

 しかしそれにしても、酷すぎる。


「俺、いつも銀さんに敵わないから、今日は頑張ったんです。でも銀さんに呼んでもらえなくて、凄く哀しくなって。こんなにも好きだって改めて気付かされて、どうしたら良いのかわからなくなって……。なのに銀さんは多少悩んだだけだなんて、ずるいです」
「………俺は、お前の直球には、いつも敵わないと思っているんだが」
「へ?」


 そうなんですか?と顔を上げれば、銀二は罰が悪そうに視線を逸らした。


「まーなんだ。そうだな…今度暇が出来たら、遠出するか」
「それが願い事?」
「ああ。行きたい場所はあるか?」
「ええと、海がいいですね。冬の海って、好きです。特に砂浜のある場所で、凍ってたりするともっと良いですよね。氷の上を歩けるんですよ」


 銀さん、一緒に歩いて下さいね。

 そう言おうとした言葉は、銀二に唇を塞がれて音にならなかった。





  ...end.


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銀さんはたんなる思いつきで賭けを持ち出しただけでした。
泣くくらい誰かを想え、愛しいと言葉に出来る…そんな純な森田であってほしい。

2010.01.11
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