居場所

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「ったく。どこに行きやがったんだか」


 壁に掛かった時計を見ながら、平井銀二は吐き捨てるように呟いた。

 ふと気が付いたら、この部屋のもう一人の住人がいなくなっていた。
 それに気付いたのが昼頃。
 それからもう六時間が経っている。

 外は、朝の日差しが嘘だったように雨が降り続いていた。
 玄関にはアイツの傘が置きっぱなしだったし、車も駐車場にあった。


 森田がこのマンションへと越してきて、およそ一ヶ月。
 今までいきなりいなくなるなんてなかったのに、一体どうした事か。

 朝起きた時は、可笑しなところはなかった筈だ。
 朝食は共に食べたし、その後しばらくはいつものように話をしていた。

 昨日はどうだっただろうか。
 仕事が終わったあと、一緒に帰ってきて、風呂入って、話をして。
 それから―――


「…くそっ」


 駄目だ、全くもって見当が付かない。
 しかも森田の携帯は、白々しいほど堂々とテーブルの上に置き去りにされている。
 持たないくらいなら、いっそ壊してやろうか。

 そんな投げやりな気持ちになってしまうのは、この憂鬱な雨のせいだ。
 どうしようもなくてソファに座って窓の外を見ていると、空があまりにも重くて、だんだん苛立ってくる。

 大体だ。
 何も言わずいなくなったアイツもアイツだが、どうして少しの間いなくなったからといって、ここまで心配しているのだろうか。
 そのせいで余計に苛立ちが募ってしまうというのに。

 …だが、それでも心配してやらなければならない気がした。
 捜さないといけないような、森田がそうされる事を望んでいるような。

 きっとこの携帯のせいだろう。
 思いっきり見える場所に置いていって、何時間も姿を消して。
 これはもう、捜してくれと言っているようなものではないか。

 銀二はふぅと溜め息をつくと、再び自分の携帯を握った。
 すでに安田や巽、船田といった仲間連中には電話をしてある。
 どれも外れだったが。

 アドレスを探して通話を押して、相手が出るのを待つ。
 しばらくすれば、耳元から静かな女性の声がした。


『もしもし、銀二さん?珍しいわねぇ、こんな時間から電話掛けてくるなんて』


 相手は、自分達がよく訪れるバーのママである。
 森田を連れていってからというものの、何かと若い彼を気に掛けてくれている人でもあった。

 銀二は軽く挨拶をすると、単刀直入に用件を言う。


「そっちに、うちの森田が行ってませんかね?」
『いえ、来てないわよ』
「そうですか」


 ここも外れか。
 可能性が低い事はわかっていたので落胆はしないが、しかしこうなるとますます森田がどこに行ったのかわからなくなる。

 未だにそこらをフラフラ歩いているとか、適当な店に入って何時間も座っているだけという事は、多分無い。
 見つけてほしいと思っているなら、自分も森田も知っている場所にいる筈だ。

 あくまでも、見つけてほしいと思っているのであれば、だが。


『銀二さん?』
「ああ、すみません。少し考え事をしていたもので」
『森田君と何かあったの?喧嘩でもしたのかしら?』
「そんな大層なものじゃないですよ。心配しないで下さい。…ただ、フラッといなくなっちまったもんで、捜してるんです。傘は持っていってないし、車でもないから風邪をひくんじゃないかと思ってね。出掛けに声もかけていきませんでしたし、携帯も置き去りで」
『そうなの』


 ふふっと彼女の優しげな笑い声が聞こえてくる。


『きっと捜して欲しいのね、森田君は』
「私もそう思ってはいるんですが」
『そうね…あの子、まだ二十歳をちょっと越えただけでしょう?しかもご両親は何年か前に他界しているって聞いたわ。それからずっと、独りで暮らしていたって。でもつい最近来た時には、貴方と一緒に暮らす事になって嬉しいって言っていたわ』
「まだ一ヶ月くらいですけどね」
『じゃあきっと、遅い思春期よ』
「はい?」


 思わず聞き返すと、またしても小さく笑われた。


『貴方に甘えてるんだわ。年齢だけなら、父と子というくらいに離れているから』
「父と子…。ああ、家族ってやつですか」


 自分がそんな概念から離れてもう何十年も経っていたので、すっかり忘れていた。
 そうか、自分と森田はそれ程に離れているのか。


『起きてから挨拶して、一緒にご飯を食べて、いろんな事を話して。他にも色々、家事を一緒にやったり、一緒に仕事をしたり。そうして自分の中に貴方の存在がどんどん入ってくる事に、ちょっとだけ戸惑っているんじゃないかしら。ちょっとだけ…独りになりたくなって。でも、そんなふうに独りである自分を、捜してほしい。そして見つけてほしい』
「―――ああ」


 わかった。
 どこにいるのか。

 長時間いても、独りになれる…誰の目にも触れない場所。
 誰にも見つけられない場所。

 でも、自分はきっと見つける事の出来る場所。

 あるじゃねぇか。


「ありがとうございました」
『ふふ。頑張ってね、お父さん』


 ご冗談を、とつい失笑してしまったが、彼女の洞察力には敵わないとも思う。
 彼女も家族などいない筈だ。
 だが女性だからか、それともバーのママをやっているからか、母親という視点から年頃の若者達の心を読むのに長けているようだ。

 電話を切ると、銀二はすぐさまマンションから出た。


















 一番近くの駐車場に車を留めて、彼のいるであろう場所まで歩いていく。
 どしゃぶりの雨がすぐに全身を濡らしていき、服が躰中にまとわりついて重くなる。
 体温が奪われていく。

 鬱陶しい雨だ。
 まるで全てを遮断するような、煩い音。
 全てを拒絶するようだと感じるのは、気のせいだろうか。

 ようやく建物に辿り着くと、銀二はカンカンカンと階段を上がっていった。
 ドアの前に立って、たった数分で冷え切った手を、ドアノブにかける。

 鍵は、開いている。


「森田」


 森田はそこにいた。
 いつからいたのかはわからないが、雨に濡れてしまった服を着たまま、窓の外を見ている。
 服を着たままだとわかるのは、ここに彼の着替えなどもう置いていないからだ。

 何も無い、アパートの小さな部屋。
 荷物は全部今住んでいるマンションに移したから、とっくにここは引き払ったと思っていたのに…まだ、借りたままだったのか。

 森田はこちらの声が聞こえてただろうに、振り返る事をしない。


「森田」


 もう一度呼んだ。
 それでも振り返らない。

 はぁ、とワザとらしく溜め息を吐いてやり、靴を脱ぐと、部屋の主の了承など得ずに部屋に上がる。
 ぼたぼたと雫が床に落ちるも、気に留めなかった。

 森田の肩を掴み、強引にこちらを向かせる。


「銀さん」


 擦れた声だった。
 双眸からは涙が零れ、頬を伝っている。

 雨で濡れた髪も、まだ少し濡れているように思う。
 このままでは風邪を引くだろうに。


「来てくれたんですね」


 静かな笑みだ。


「馬鹿が」


 呟くと、彼は笑みを浮かべたまま顔を歪める。
 その濡れた眼で、こちらを見つめてくる。


「少し…独りになりたくて」


 マンションとは違い、雨の音が室内にも大きく響いた。
 彼の呟きは、微かにしか聞こえてこない。


「何故」


 強く言い放った。
 そうでなければ、きっとコイツは答えない。
 そう思ったから。

 森田は戸惑いがちに何度か口を開き、閉じる。
 しかしじっと見つめていると観念したのか、ぽつぽつと喋り始めた。


「俺…銀さんと会うまで、ずっと独りでいる事に慣れていたんです。ふと顔を上げた時に誰かがいるなんて、無かった。それが当たり前だと思っていたし、つらく感じた事もなかった。でも、銀さんに出会って一緒にいるようになって、一緒に住むようにまでなって。気が付いたんです。本当はつらかったんだって。寂しかったんだって。寂しくて自棄になって競馬で金使いまくっていたし、まともに働きもしていなかった。でも、そんな生活したって、誰からも文句の一つ言われない」


 相変わらず雨に掻き消されるような声だ。
 それでもこれだけ近くにいれば、一句一字漏らす事は無かった。


「今日、起きた時凄くビックリしたんですよ?」
「…今日?」
「はい。今日、初めて銀さんに起こしてもらいました。眼を開いた時に貴方が顔を覗きこんでいて、心臓止まるかと思いました。そういうの、もうずっと無かったから」


 そういえば、そうだっただろうか。
 もう一ヶ月も経ったのだから、数回くらいはあっても可笑しくない気もするのだが。

 寒さからカタカタと躰を震わせている森田に、銀二は眉を寄せた。
 自分も濡れてしまっているが、きっと何もしないよりは…と、その躰を抱き締める。


「なっ…銀さん?」
「寒ぃんだろ。こうしていれば、暫くすりゃ暖かくなる」
「………はい」


 困惑しつつも森田は頷き、そのまま人の懐の中でじっとしていた。
 沈黙が漂い、しかし先程まで煩いと思っていた雨の音が、気まずさを打ち消してくれる。


「…なんか、ちょっと。恥ずかしい、かも」
「そうか」


 恥ずかしいと言いながらも、こちらの腰に腕を回してくる。
 徐々に触れ合っている部分が暖かくなっていき、寒さが消えていく。

 そうすると、ようやく自らの躰の力が抜けていくのがわかった。
 ほぅと息を吐き、胸に埋められた森田の頭を軽く小突く。


「全く…心配掛けさせやがって。今度からは絶対に、何も言わずにいなくなるなんて馬鹿な真似はするなよ」
「ごめんなさい」
「携帯置いてくなんて事もするな」
「はい」


 素直に頷いた彼に、銀二はもう一度息を吐いた。


「ったく、手のかかる…」
「へへ…銀さん、雨の匂いがする」
「お前もな」


 頭を撫でてやれば、何が面白いのか、コイツは肩を震わせて笑い始めた。

 ここに来る前に言われたからというわけでは無いとは思うが、本当に子供を慰めている気分がする。
 でかい子供だが、まぁ可愛げはある。


「銀さん」
「なんだ?」


 聞き返すと、森田は顔を上げずにくぐもった声を出した。


「俺、捜していたんだと思うんです。…俺の居場所ってやつを。本当に貴方の傍に居て良いのかわからなくなって、もし邪魔だって言われたらと思うと怖くなっちまって、離れてしまえと自棄になった。でもそうやって離れたら、今度はすげぇ寂しくなっちまいました。そして…心底、貴方の傍に居たいって思った」


 外からはまだ雨の音が聞こえてくる。
 だが、彼の声は、もうハッキリしている。


「それがわかったとたん、涙が出てきた。止まらなかった。すぐにでも貴方に会いたくなった」
「じゃあ、どうしてさっさと戻ってこなかったんだ。こんなに躰冷たくして」


 答えは、何となくわかっていた。
 それでも聞いたのは、明確な言葉として彼に言わせるべきだと思ったからだ。
 言えば、きっとスッキリする。
 哀しみなんてもんは、いつまでも胸に燻らせたままでいない方が良い。

 昔の事なんて忘れろとは言わないが、これから先を見つめるべきだ。
 コイツはまだ、若いのだから。

 また森田は笑った。


「貴方が俺を捜してくれる、そう思った…いや、そう思いたかったから。だから待ってみようって思いました。かなりキツかったですけど」
「そりゃあこんな場所で何時間も、しかも濡れたままでいれば、キツくもなるだろうよ」
「でも、嬉しかったです。貴方に見つけてもらえて。貴方が本当に捜してくれていて」
「俺を試すなんて真似するのは、お前くらいだよ」


 それでも許せてしまえるのだから、やはり己にとっても森田という存在は既に無くてはならないものになっているのだろう。
 不安になったのは、コイツだけでは無い。
 自分もだ。

 それを言うのは、弱みを見せるようで癪だったので黙っておいたが。


「銀さん。俺を見つけてくれて、ありがとうございました」


 森田のふわりと笑う空気が伝わる。
 そして顔を上げてくる。
 もう、泣いていなかった。

 雨もいつの間にか止んでいて、窓からは夜空が見える。


「このアパート、ちゃんと引き払えよ」
「はい」
「お前の家はもうあるんだ」
「はい」
「さて、じゃあ帰るか」


 俺達の家に。

 そう呟いた次に来た返事は、とても嬉しそうだった。





  ...end.


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この年齢差がとても萌えるんだと思うんだ、銀と金は。

2010.03.02
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